第一章 無料公開

俺とオレ

~さよなら大嫌いな自分~

著 藤浦隆雅 東一輝

 

プロローグ

繋いだ手を離されて初めて、その手が大きくて温かかったことに気づく。行き場をなくした俺の小さな手は空を掴んで不格好に揺れた。

「父さん?」

まだ幼い俺が慌てて見上げるのと、父さんが顔を背けたのは同時だった。

辺りは夕暮れ時で、俺たちの長い長い影は、夜の闇に紛れようとしている。俺には、どうして父さんがこんなところで突き放すような真似をするのかわからなかった。

ねえ、と小走りで追いつき力なくぶら下がった手に縋りつこうとしても、すぐに振り解かれてしまう。
そして父さんの足は止まることなく前へ前へと進んでいく。俺は必死に足を動かすが、だんだんと距離は開いていった。

父さんが向かう先は真っ暗で何も見えなかった。追いつけずにいると辺りも少しずつ暗闇に覆われていく。背中を焼くような焦りと拒絶されたことによる胸の痛みでひどく息が上がった。

「父さんっ!」

遠ざかる背中はもうお前なんて必要ないと言っている気がした。足は根を張ったかのように地面から動かなくなり、俺はただひたすら父さんを呼び続けることしかできない。

遠くなった背中が完全に闇に消え、気づいた時には自分の小さな息遣いだけがこの世界の全てになった。俺はただ立ち尽くし、孤独感と恐怖に震えた。こんなところで見捨てられた。湧き上がってくるのは憎しみにも似た悲しみと、淋しさ。

それから俺は、強張る足を引きずって暗闇の中を彷徨った。どこまで歩いても果てなどなく、時折何かに躓きそうになってはふらつく体を何とか立て直した。子どもの俺は、足掻けばいつか再びその大きな手に辿り着くと信じて疑わなかった。しかし、歩いても歩いても俺は何も.つかめない。

歯をくいしばった瞬間、健太郎、と聞き覚えのある声がこの世界いっぱいに響き渡った。ハッと顔を上げると、真っ暗な空に光が差していた。自分の名が呼ばれるたびに世界は明るくなっていく。

――健太郎!――

行き場をなくして彷徨わせていた手が、誰かに力強く握られる。そして引っ張られるようにして俺は白い光の中に出た。

 

目次

プロローグ  2

第一章 覚醒  7

八月七日(金)………………………………………………………………………………………8

八月八日(土)………………………………………………………………………………………17

八月九日(日)………………………………………………………………………………………23

八月十日(月)………………………………………………………………………………………28

八月六日(木)………………………………………………………………………………………29

再び八月十日(月)…………………………………………………………………………………48

八月十一日(火)……………………………………………………………………………………60

八月十四日(金)……………………………………………………………………………………63

八月十七日(月)……………………………………………………………………………………65

八月十八日(火)……………………………………………………………………………………71

第二章 修行  90

八月十九日(水)……………………………………………………………………………………91

八月二十二日(土)…………………………………………………………………………………100

八月二十三日(日)…………………………………………………………………………………109

八月三十日(日)……………………………………………………………………………………127

九月二日(水)………………………………………………………………………………………141

九月十日(木)………………………………………………………………………………………149

九月十六日(水)……………………………………………………………………………………158

九月十九日(土)……………………………………………………………………………………171

九月二十三日(水)…………………………………………………………………………………183

十月十日(土)………………………………………………………………………………………191

十月十二日(月)……………………………………………………………………………………203

十月十三日(火)……………………………………………………………………………………210

第三章 再起  214

十月十四日(水)……………………………………………………………………………………215

十月二十二日(木)…………………………………………………………………………………220

十月二十四日(土)…………………………………………………………………………………230

十月二十五日(日)…………………………………………………………………………………238

エピローグ 五月十七日(火)  246

あとがき  250

 

覚醒

第一章

八月七日(金)

母さんが、大きな目にいっぱい涙を溜めて俺を覗き込んでいた。ポタリと一滴、温かい雫が俺の頬に落ちてきたのを感じた。

まだ夢の中なのだろうか。どうして母さんが泣いているのかわからない。靄がかかったような頭は言うことを聞かなかった。

「健太郎……! よかったぁ……」

どういうわけか握られたままの手に、母さんの震えが伝わってくる。その手は俺よりもずっと小さくて、俺は立派な大人であることを思い出した。

クリアになっていく視界はやはり全体的に白く、次第にドラマなんかでよく見る病室だということがわかってきた。

意識の半分はまだ夢の世界を引きずっているようで、やけに主張してくる胸の鼓動ごと自分を抱きしめるように丸くなった。また、あの夢を見てしまった。こんな目覚めは何度も経験している。小学生の頃から繰り返し見る悪夢だ。けれど、これほど長く感じたのは初めてだった。

ぼんやりしているうちにやってきた医者に母さんが駆け寄っていくのが視界の端っこに映って、俺は何があったのか聞こうと体に力を入れる。けれどすぐに戻ってきた体の感覚に顔をしかめた。二の腕に両脚、そして口の端。身体中に散らばる地味な痛みに少し眉が寄った。病室でめまぐるしく動く人影と心配そうな母さんと知らない声が次第に俺の不安を掻き立てていく。

「柴山さん、今日の日付と時刻、わかりますか?」

医者の声だろうか。大きい声で呼びかけられて俺は目を瞬かせた。今日の日付……と鈍く動く頭で懸命に考える。最後の記憶は、そうだ、炎天下の中、営業に行ったのだ。

「八月六日……? 今は……夕方くらい……ですか」

「じゃあここがどこだかわかりますか」

「……病院」

それから俺は、自分や横にいる家族がわかるか、目の前のものが見えているか、耳は聞こえているか、指示通り手足が動かせるか、などの簡単な検査を受けた。どうやら、今日は八月七日、金曜日だという。

「ほんとに心配したんだからね!」

何が何だかわからない俺をよそに、母さんはもういつもの母さんに戻っていた。それでも、ベッドの脇の椅子に座りながら、まだ俺の手を強く握っている。

「……ちょっと待って、何があったの……?」

俺は目が覚めてから今に至るまで頭の中を埋め尽くしていた疑問をやっと言葉にした。それを聞いた母さんは大きな目をさらに見開いて俺を見る。

「覚えてないの……?」

「え、うん……」

「やだ、やっぱりどこかおかしいんじゃないかしら」

母さんは少し白髪の交じった頭を抱えて深刻そうなため息をついた。俺は焦れったくてたまらない。

「いいから早く教えてくれよ」

「……あなた、道路に飛び出した子どもを助けようとして車にはねられたのよ」

「は? 子ども?」

なぜ俺が? と思った。どっかの正義感に溢れた他人の話を聞いているようだ。その子どもとやらの顔を思い出そうとしても、やはり何も思い出せない。

「母さん、あんたを褒めたらいいのか叱ったらいいのかわからないけど、とにかく、命を大切にして。……もう二度とこんな心配させないで」

母さんは険しい顔で語気を強めた。結局叱ってるじゃん、と思ったが、口に出すと面倒臭そうなのでハイハイと生返事をし、やっと汗ばんだ母さんの手を離した。

どうやら、俺は昨日事故に遭ったらしい。時間の感覚があまりないが、丸一日目を覚まさなかったと聞くととんでもなく恐ろしい。だが幸いにも大事には至らなかったようだ。CTを撮ったが脳に異常はなく、所々擦りむいた傷が痛むくらいで、こんなに長く眠っていたのがおかしいくらいなのだそうだ。医者によれば、明日また問題がなければ夕方にでも退院できるという話だった。

会社には母さんが連絡しておいてくれたらしい。明日明後日と土日で助かった。俺からは明日にでも電話すればいいだろう。こうして母さんも俺も一安心したところで面会時間が終わった。

七時頃に夕食が出た。入院した経験などないものだから、甲斐甲斐しくベッドまで食事を持ってこられるのは新鮮だ。メニューは思ったより豪華で、温かいシチューやデザートのプリンをペロッと平らげる。
立ち上がれば軽い打ち身が少し痛むぐらいで、俺は至って健康体だった。安心しきった俺は、寝る準備もさっさと済ませ、いつものようにスマホを眺めつつ横になった。惰性でゲームをしているとあっという間に消灯時間になり、次々と電気が消されていく。そんな中、喉が渇いた俺はお茶を飲もうとベッド脇のスタンドライトを点けた。夜の病院は外界から隔離されたように静まり返っていて、たまに遠くの方で看護師だろうか、誰かの声がする他は、空調と冷蔵庫の動作音しかしない。それなのにふと何かが動く気配を感じて目線を上げると、入口側からベッドを隠すように備え付けられた仕切りカーテンが空調の微弱な風で揺れていた。なんだ、と安堵して息を吐き出した次の瞬間、本来そこにあるはずのない人影らしきものが映っていることに気づき、俺は咄嗟に動きを止めた。

――何かがいる。

この部屋は完全な個室である。母さんはとっくに帰ったし、最後に看護師が見回りで挨拶に来たが、それ以降は誰かが入ってきた気配はなかった。

俺はゆっくりと体を起こした。ベッドの左側、布一枚挟んだすぐそこに、背の高い男のシルエットが浮かんでいた。

俺の脳裏で先週放送された夏休みの心霊特番が勝手に蘇る。二十三の男が怖がるものでもないだろうとたかをくくって見たのがいけなかった。病院は絶好の心霊スポットだ。大概幽霊を見た奴は近いうちに死ぬことになる。

自分でも馬鹿らしいと思っているのにその考えを打ち消すことができなかった。影は俺をじっと見つめているかのようにこちらを向いて動かない。どんな姿をしているのだろうか。少し想像しただけで肩が震えた。俺はただカーテンを凝視し、その影が消え去ることを祈る。目を逸らしたくてたまらなかったが、今この状況で視覚を手離してしまうのは怖かった。

この一人部屋にはカーテンの向こう側に出口が一つあるだけで、後退りしたくても道はない。薄い布一枚を隔てて向き合う影はその存在感を増していき、俺の背中を嫌な汗が流れていく。

「……おい」

我慢できずに声を出すと、ゆらりと影が動いた。びくり、と反射的に体が跳ねる。やはり、ここに何かがいるのだ。何の返事もない。ただ一歩ずつ、ベッドの足元の方へ移動しているのが見える。

黒い姿はカーテンの端まで来て立ち止まった。恐怖で動けない俺はそれを目で追うが、また少しでも動けば俺と奴の間に仕切りがなくなるのは明白だった。俺は声をかけたことを後悔した。もう逃れることはできない。拳を握りしめた瞬間、僅かに開いたカーテンと壁の隙間に男の顔半分が覗いた。

「ひぃっ……!」

その声を情けないと思う余裕さえなかった。男の真っ黒な瞳は静かに俺を見る。その瞬間、奴の片目はニィ、と三日月型に細まる。

もう終わりだ。身体が硬直したように動かない。ただ目の前に佇む男と見つめ合うこと数秒、奴がこちらへ一歩踏み出したのと、俺が声を上げるのは同時だった。

「は……?」

その目、鼻、口……その顔はどこからどう見ても俺と同じだった。俺の顔がこちらを見ている。思考は停止し、驚きは言葉にもならない。信じられない思いで見上げていると、突然奴は腹を抱えて笑い始めた。

「はっ、あはははっ! ばっかじゃねえの?」

そのまま奴はよたよたと近づいてくると少し前まで母さんが座ってたパイプ椅子に勢いよく腰を下ろし、唖然とする俺をよそにひぃひぃと笑い続ける。

俺は恐怖とはまた別の感情で声が出ないまま、その姿を頭のてっぺんからつま先まで凝視し続けた。ヨレたTシャツに穿き古したジャージ。俺の部屋着そのままを身につけている。

「……お前は、何だ?」

やっとのことでその問いを絞り出すと、奴は半笑いのまま片眉を上げた。

「はぁ……? 何、ってお前が一番わかってるだろ?」

「っ、わからないから聞いてるんだろ。……こんなの有り得ない」

奴はわざとらしく大きなため息をつくと、面倒臭そうに口を開いた。

「柴山健太郎」

「えっ」

「……柴山健太郎、二十三歳。名門、名海大卒。現在は株式会社グローエンスに勤務」

どこか自慢気な声が苛立たしい。それにしても、予想通りというかなんというか、奴は俺の名前を口にした。どうだ、と得意げな視線を送ってくるが、確かにそれは全て事実だ。しかし、だからといって、俺はハイソウデスカと奴の存在を受け入れられるほど単純な人間ではない。目の前で起こっていることの意味がわからなかった。まだ幽霊のほうが現実味がある。

「まだ疑ってんのか?」

「まだ、って……当たり前だろ」

奴を睨みつけると、俺と同じ顔でしかめ面をする。キイキイと耳障りな音が聞こえるのは、奴が椅子の上で貧乏揺すりを始めたからだ。こんなのが俺であるわけがない。だが、奴は俺と同じ声で話し始める。

「……父親はオレが五歳のときに蒸発。母さんが女手一つでここまで育ててくれた」

自分の人生について聞かされるのは変な感じだった。しかし、どうしたって俺がもう一人いるわけがないのだ。事故の影響でこんな幻覚が見えてしまうのかもしれない。真面目に取り合うのは馬鹿らしいと思いながらも、その姿から目が離せなかった。

「それから、どう考えてもオレしか知らない事実を敢えて言うならば、そうだな。……時々、悪夢を見る。父さんが、オレを捨てる夢だ」

鮮明なイメージが突然頭の中で蘇る。落っこちそうな夕日と長く伸びた黒い影。俺を突き放す大きくて温かい手のひらまで。それは数時間前にも俺を苦しめていた。

俺は奴から目を逸らした。確かに、それは俺しか知り得ない。

「どうだ? 信じる気になったか? ちなみにお前は事故で頭がおかしくなったわけでも何でもないぞ」

奴に考えを読まれ、俺は驚いた。

「事故はきっかけにすぎない。見えていないだけで、オレはずっと存在していた。オレは本当のお前だ。
今もお前の中にオレはいる」

奴の言ってることは回りくどくて俺にはよく理解できない。ただ、もしこれが現実だとするならば、俺はこいつをどう受け入れればいいのだろう。目の前の光景を含め今日一日が非日常的すぎて、正直俺は疲れきってしまった。

「OK、お前は俺なんだな」

「そうだ」

奴は鷹揚に頷いた。

「……とりあえず、いつ消えてくれる……?」

「そんなのオレにもわからない」

「お前をどう説明したらいいんだ」

「知るか」

「はあ……」

自分勝手で子どもじみた態度にいよいよ辟易して、これ見よがしに大きなため息をついてやった。

「……とりあえず出てってくれるか? 俺さっき目が覚めたばっかりで疲れてるんだ」

「オレはお前だからそれは無理だ。大体、目が覚めたばっかりなのはオレも同じだ」

なるほど、そういうことになるのか、と俺は半ば諦めて頷いた。こいつと真剣に話す必要もないだろう。疲労感がどっと押し寄せてくるのに身を任せて俺は瞼を閉じた。

「おい、無視するなよ」

俺はわざとらしく奴に背中を向けた。枕に顔を埋めた俺は、朝にはもう一人の俺が消えていることを願った。

 

八月八日(土)

今度は何の夢も見なかった気がする。

俺は誰に起こされるでもなく清々しい朝を迎えた。昨夜まで俺を苛んでいた体の痛みは影を潜め、何とも気持ちの良い目覚めだ。やっぱり事故に遭ったなんていうのは冗談みたいに思えた。

そういえば、と咄嗟に振り返り、仕切りを取り払って部屋の隅々まで見渡してみたが、あの忌々しい男はどこにもいなかった。やはり昨日はどうかしていたらしい。ただの幻覚だったのだろう。

検査の結果、夕方にはアパートに帰ることになった。最後に医者は何か気になることはないかと聞いてきたが、昨日見たもう一人の俺のことについては言えなかった。事故に遭ったときの記憶も全く思い出せないが、敢えて言う必要はないだろう。これ以上入院する気なんてさらさらなかったし、母さんに心配はかけたくない。それに必要なことは全て覚えている。事故の記憶など持っていても良いことなど一つもないのだ。俺は礼だけ口にすると退院の手続きを済ませ、病院を出た。

電車を乗り継いでアパートへと向かう間、俺はぼんやりと窓の外を眺めていた。向かいの窓には容赦なく照りつける灼熱の太陽に晒されたビル群が流れていく。そのまま暗いトンネルに入ると、真っ黒な窓に何の感情も窺えない自分の顔が反射していた。じいっと目を合わせると昨日の「もう一人の俺」とやらを彷彿とさせ、しかめ面をする。すると、窓に映った俺も困ったような怒ったような顔でこちらを見た。

正直言って、こんなものか、と拍子抜けしていた。目が覚めた後はとんでもないことに巻き込まれてしまったとドキドキしたが、今思えば事故なんて大したことのない、母さんを無駄に心配させただけのことだ。俺はどこかで何かが変わるかもしれないという期待をしていた。ただ、毎日何の面白みもない仕事をこなし、こんな風に電車に揺られて一人暮らしの狭いアパートに帰る。そんな日々に少し嫌気が差していた。事故に遭ったくらいじゃ、この漠然とした不満に包まれた日々は何ら変わらないのだ。事故に遭った時の自分が何を考えていたのか、今となっては思い出せないが、よくそんなことができたもんだ、と他人事のような気持ちになる。確か俺は大口の会社に営業に行ったはずだ。それが上手くいかなかったことは覚えている。そこまで思い出して、俺は心が暗くなるのを感じた。

一人暮らしのアパートのドアを開けると、むわっとした空気が出迎えた。荷物を居間に置き、閉め切った窓を開ける。いい加減喉が渇いて、冷蔵庫を開けるとミネラルウォーターを喉に流し込んだ。冷蔵庫の中には調味料やビール以外何もない。買い出しに行かなければ。またこのうだるような暑さの中を?
そう思ったらめんどくさくてたまらなくなり、ソファに体を投げ出すと目の前にあった扇風機の首をガキッとこちらに向けた。気休め程度の冷風が前髪を乱す。そういえば会社に電話するんだった、とポケットの中からスマホを取り出す。部長の番号にかけると三コール目で「はい、石丸です」と返された。

「すみません、柴山ですが……」

部長は厳しい人だが、先程退院した旨を伝えると、今日ばかりは少し気遣ったような声で『土日休んで問題なければ月曜から出てこい』と言った。最近ずっと小言を言われている身からすると新鮮だった。
しかしやっぱり普通に月曜からか、と少し残念な気持ちになる。だが営業の報告もしなければいけないし、仕事も溜まっている。仕方がない。

ついでにいくつか届いているメッセージを開くと一番古いメッセージは真紀からのものだった。『土日どっちか空いてる? 飲も!』とこちらの気持ちも知らずにいい気なもんだ。それでも俺の指は勝手に『返信遅れてごめん。実は……』と打ち始める。彼女はどこからどう見ても美人、大学時代は準ミスだった素晴らしい恋人だ。今日はさすがに疲れたが明日ならば会える。少しだけ沈んでいた気持ちが軽くなるのを感じた。彼女に返事をし終えると、スーパーへ買い出しに行くべく重い腰を上げた。

行きつけのスーパーは家から徒歩三分の距離にある。アパートを決める際、その条件に惹かれてここを選んだと言ってもいい。品揃えも良く小綺麗で、食料品は必ずと言っていいほどここで買っている。

自動ドアをくぐると心地よい冷気が俺を包んだ。先程までの気だるい体が嘘のように意気揚々と買い物を始めた俺は、野菜売り場、肉売り場を通り、冷凍食品コーナーに至る頃には買い物カゴをいっぱいにしていた。子どもの頃、母さんの帰りが遅かったせいか、同年代の男よりは料理ができると自負している。とは言ってもそんなにじっくり自分一人のために料理など作る時間もなく、冷凍食品に頼ることが多い。正直、パスタなんかは自分で作るより冷凍食品を温めるほうがよっぽど美味しい。

俺はミートソースパスタを二つ入れたところでアイス売り場に向かうことにした。通路の曲がり角に差し掛かったところで新商品の餃子に目を奪われる。その瞬間、腰に鈍い痛みが走った。

「いって……!」

振り向くと山盛りになったカゴを載せたカートに背後から当てられたのだとわかった。そのカートの主と目が合う。

「おい、前見て歩け! 気をつけろよ!」

語気の荒い言葉は誰が発したものだったのだろうか。一瞬、時が止まったような気がした。ただ目の前のカートを押していたおっさんが俺に向かって申し訳なさそうにすみません、と頭を下げ、足早に方向転換していく。

本当に今の言葉は俺のものか? 俺はカゴを持ったまま暫し呆然とした。普段少しぶつかったくらいで他人にこんな言い方をすることはない。もしかして、事故の影響か? カートの接触にまで危機感を覚えるようになったとでもいうのだろうか。

――まだ本調子ではないようだ。

俺は軽く頭を振るとレジに向かった。

夕方ということもあって、どこのレジも混み合っていた。並ぶ客の数に多少のバラつきはあろうとも、俺が並ぶレジは決まっている。

いつもの五番レジに並ぶと前に二人並んでいた。「こじま」と書かれた名札をつけた大学生くらいの女の子がテキパキと商品をカゴに移し替えていく。

初めて彼女と喋ったのは二カ月前のことだ。何度も顔を合わすうちに気軽に会話できるようになったのだ。優しそうな笑顔の可愛い子だと思う。真紀とはまた違ったタイプだ。レジを打ってもらう、たった一分二分の間に交わす何気ない言葉に癒やされる。

ようやく一人目の会計が終わり、俺の前にいる茶髪の男がチューハイとスナック菓子だらけの買い物カゴを彼女の前に置いた。

「小島ちゃん久しぶり」

「あっ、お久しぶりです」

小島さんは男の言葉に顔を上げると微笑んだ。男は、袋一枚お願い、と言い、「小島ちゃんはお酒飲めるの?」と喋り続ける。

「何言ってるんですか、私もう四年生なんですよ」

「えーっ、じゃあもしかして就活終わってる? そんな風に見えないよ」

「それってどういう意味ですか」

彼女は頬を膨らませて、ようやく「二千七百四円になります」と言った。なぜか無性に腹が立ってきた。こんな奴にまで笑顔を振りまいて。

男は支払い終わるまでぺらぺらと喋り続け、やっと俺の番になった。

「あっ、こんにちは」

彼女は俺を認めると先程の男に向けた笑顔を浮かべ、そう声を掛けた。俺はそれにいつものように応えようとは思えなくて首だけで会釈し、エコバッグを差し出した。

彼女は手際よく商品を詰めると合計金額を読み上げ、俺は黙って支払いを済ませた。

「今日はちょっと元気ないですか?」

カゴの中の袋を持ち上げようとしたとき、小島さんはそう言って微笑んだ。

「うるせえな、誰にでもニコニコしやがって」

俺もわけがわからないまま目の前の小島さんの笑顔が固まった。俺は咄嗟に「す、すみません!」と謝る。

「え……」

呆然とする小島さんにごめんなさいと連呼し、俺は逃げるようにしてそこを離れた。

心臓がバクバクしている。俺の口は何てことを言ってしまったんだろう。チラリと小島さんのレジを振り返ると、彼女は次の客の対応をしていた。しかしその顔にいつもの笑顔はない。

やはり、今日の俺はどこかおかしい。いや、絶対におかしい。俺はどうしてしまったのだろうか。重い袋を握りしめる手はじっとりと汗ばんでいた。

ここにいたら自分がまた何をしでかすかわからない。怖くなった俺は足早に家へ帰った。

 

八月九日(日)

十時頃、事故で俺が庇ったという女の子とその母親が訪ねてきた。

既に俺が病院に運ばれた時点で何度も母さんに詫び、泣きながら頭を下げていたらしく、事故そのものの記憶がない俺としては何とも居心地の悪いものだ。

女の子は五歳で、幼稚園に通っているらしい。まだ若い母親に手を繋がれた姿はとても可愛らしく、とりあえずこの子が死んだりしなくてよかったと思った。その子は満面の笑みで「お兄ちゃん、ありがとう!」と言うものだから、俺もでれでれと「これからは気をつけてね」と応えるだけだった。無邪気な振る舞いを見る限り、事故に遭ったということをよく理解していないようだが、元気いっぱいなのは何よりだ。母親はやはり何度も頭を下げていたが、「俺が勝手にやったことですから」と記憶もないのに我ながら正義感に溢れた言葉を言えば、ありがとうございますありがとうございます、ととんでもなく高そうなケーキを置いていった。

そのとんでもなく高そうなケーキのうち一つが今目の前で真紀の口に運ばれていく。

「ん~! 美味しい!」

横に座っている真紀は大げさに目を閉じるとこちらを向いて微笑んだ。

「いや~健太郎はすごいよ、ほんと! 普通咄嗟に女の子守ったりなんかできないって」

「あぁ……うん、ありがとう」

昼下がりにうちに来た真紀は、俺の退院祝いにと赤ワインを持ってきた。三時のおやつにかこつけて一緒にケーキとワインを囲んでいるが、正直言って俺はワインが苦手だ。だがそんなことも言えずちびちびと飲んでいると、真紀は「昼からお酒飲めるなんて贅沢~!」と言いながらまだ半分ほど残っている俺のグラスになみなみと注いだ。ワインはともかく、あの母親が持ってきたケーキは口に運べば自分
では滅多に食べられないものだとわかるほど美味しかった。

「ねえ」

真紀は綺麗に飾られた爪先でフォークをいじりながら俺をじっと見つめていた。

「ん?」

「私今すごく幸せ」

「そうなの?」

「うん、だって全部順調だもん。特にね、健太郎のこと友達に話すといっつも羨ましがられるんだよ」

そう言って笑う真紀はとても綺麗だった。キラキラしてるものが揺れていて、よく見ればそれは今年の誕生日にプレゼントしたスワロフスキーのピアスだった。

「やっぱり名海大卒は大きいね。グローエンスもまあ有名企業だし、健太郎スペック高いよ」

「そういうものなのか? 自分じゃよくわからないけど」

真っ黒な切れ長の目がこちらを見て嬉しそうに細まっている。彼女はこうして俺を見ているようで、実は俺について回るそのスペックとやらを見つめているのを俺は何となく知っている。けれどわざわざそんなことを口に出したりなどしない。彼女にとって俺がそうであるように、俺にとって彼女は誰にでも自慢できる存在なのだ。

「ちなみに、ケーキもう一個食べさせてくれたらもっと幸せになるんだけどなぁ」

「はいはい、どうぞどうぞ」

俺はケーキの箱を差し出した。真紀は迷わず色とりどりのフルーツタルトを皿に載せると再び目を閉じて味わっていた。そしてパチリと目を開けるとワイングラスを傾ける。

「そういえば体はもう大丈夫なの?」

「うん、もう何ともないよ」

「やっぱり痛かった?」

「まあ、痛いとか感じる前に意識がなくなったみたいだからね」

「わー、そっちのが怖いね」

真紀は目を見開いて眉をしかめる。その顔を見ながら、事故の話をされるのは居心地がどこか悪いな、と思った。

「でも私、見直したの。健太郎、その女の子にとったらヒーローだね」

そう言って彼女は俺の頬に一つキスをした。俺がヒーローならばこれは女神の祝福か。俺は本当にそんな人間だろうか。恐らく目の前でその時と同じ光景が繰り返されようと、今の俺では助けに入ることなどできないだろう。

「それと、気になってたんだけど、健太郎ってお母さんに私のこと話してる? 今回みたいに健太郎に何かあった時、私彼女なのに知らないでいるなんて、そんなのダメだよ」

「ああ、そういえば……そっか、ありがとう」

真紀は俺の二の腕に自分の腕を絡ませると「今度お母さんに紹介してくれる?」と言った。

真紀を紹介すればきっと母さんは喜ぶだろう。父さんがいなくなったせいで一人寂しい思いをしている母さんにはいい知らせになる。けれど母さんが真紀をまるで婚約者のように扱ったりするかと思うと気が重くなった。紹介するのはまだ少し早い気がする。

「わかった。近いうちに俺の実家に連れてくよ」

「ほんと? 楽しみにしてるね!」

真紀は嬉しそうに笑うと「ご馳走様!」といつの間にか綺麗になった皿の上にフォークを置き、立ち上がった。

「それじゃ、またね」

「えっ、もう帰るの? まだ夜にもなってないけど……」

窓の外は真昼のように明るかった。真紀はくるりとこちらを振り返る。

「私、明日朝早いんだよね。健太郎もお疲れでしょ、ゆっくり休んでね」

「……そうか、わかった」

真紀の言葉は有無を言わせず、俺は渋々首を縦に振った。真紀はそうしている間にも帰り支度を始め、バッグを肩に掛ける。

「ケーキご馳走様! ワイン飲んでね。それじゃバイバイ」

彼女は玄関でパンプスを引っ掛けると小さく手を振ってドアの向こうに行ってしまった。

「バイバイ……」

俺はのろのろとドアに鍵をかけると再びリビングのソファに腰を下ろした。机の上にある食べかけのケーキをつつきながら自分の頭の奥深くにあるはずの思い出せない記憶を探してみた。けれどどれだけ頭を巡らせてみてもそれらしきものは何も見つからない。

俺は諦めて夕飯の準備のために立ち上がった。

 

八月十日(月)

ああ、月曜日がきた。

昨日が日曜日だったのだから今日は月曜日なのは当たり前だが、それは人間が勝手に決めたことだ。
花や鳥にとって昨日は日曜日ではないし、今日は月曜日じゃない。どうせ大半の人が月曜日を疎ましく思っているならば、一度くらい日曜日を延長させてもいいのではないか。

寝惚けた頭でそんなことを考えながら、顔を洗い、朝食を済ませ、髪を整えスーツも着た。格好ばかりは行く気満々だがソファから腰を上げるのはなかなか至難の業だった。いつものことだ。

だが電車が俺を待っててくれるわけもないのでよっこらせ、と立ち上がる。結局いつも通り土日の二日間しか休んでいないというのに、すごく久しぶりに仕事へ行く気分だった。そのせいだろうか、狭い玄関の隅に横たわる黒い革靴がどこかよそよそしく感じる。

就活時代から履いているからか、先端が少し剥げて変色していることに初めて気づいた。まあ誰も気づかないだろうとそのまま足を入れる。

──靴を磨いていかないか?

耳の奥で男のしゃがれた声が蘇った。そう思った瞬間、いきなりパァン! と風船が弾けるみたいに、探していた記憶が濁流となって勢いよく流れ込んできた。

 

八月六日(木)

俺は小塚駅を降りた。

ここは都心から少し離れた住宅街で、こんな昼下がりじゃ歩いている人もまばらだ。

まだ午前中だというのに、強い日差しにジリジリと焼かれているアスファルトの上を歩けば、上からも下からも熱気がまとわりついてきて一気に汗が噴き出す。とりあえず上着を脱いで袖をまくり、ネクタイを喉元で緩めた。真夏日だ、と思いながらも、頭上で光る太陽がこれから挑む大勝負に向けて心に火を点けてくれているようにも感じる。

駅から伸びるこの一本の大通りから前方を見ると、一際大きなビルがこちらを見下ろすように立っていた。今からこの『テクフォード』に商談に行くのだ。眩しさに目を細めながらビルを見上げると、社長室があるであろう最上階の嵌め殺しの窓がピカピカと日光を反射して輝いていた。

テクフォードは、ITをいち早く教育に取り入れたことで成功したベンチャー企業であるそうだが、ベンチャーとはいうものの、こんなに大きな自社ビルがあるのだから大企業といっても差し支えないだろう。

今日はそのテクフォードに、俺の働くグローエンスによる教育導入が決まるかどうかの大事なプレゼンの日だった。

グローエンスは社員教育の会社だ。今回は、自社始まって以来最大規模の商談相手であるため、俺には社長や他の社員から大きな期待と同時にかなりのプレッシャーがかけられている。そもそも、なぜ俺みたいな新入社員がそんな大仕事を任されているかというと、テクフォードの社長から、社内で一番の若手営業マンに説明してもらいたいと言われていたからだ。どうやら、教育会社の質は、新人を見ればわかるらしい。俺一人で、というのもその社長の希望らしいのだ。

教育システム自体は担当者レベルでは納得してもらっていて、今回は最後の総仕上げとして社長の前でプレゼンをすることになっている。

それにしても、何とも変わった社長だ。一筋縄ではいかないだろうと、嫌な予感がしてくる。

そんなことを思っているうちに、もうすぐテクフォードのビルに着く。急いでネクタイを締め直し、上着を着た。

広いエントランスに入ると綺麗な受付嬢が声をかけてきた。会社名と名前を言うと、すぐに会議室に連れていってくれた。

廊下には俺の会社のようにチラシが貼られた掲示板などなく、代わりに所々に小さな油絵の額が飾ってある。どこまでも洗練された空間だった。

エレベーターは軽い音を立てて扉を開け、案内してくれた女の子はそのフロアの奥へ俺を連れていく。
重厚な扉をノックし、「どうぞ」と開けてくれた。

「ありがとうございました」

小さく頭を下げると彼女は微笑んで持ち場へ帰っていく。

「お入りください」

部屋の中から落ち着いた声が聞こえ、俺は覚悟を決めて一歩踏み出した。

「失礼します」

会議室を見渡すと、コの字型に並べられた机に今回の担当者を含め偉そうな顔が既に揃っていた。そして、奥の机の向こうにこちらに背を向けて大きな椅子に座る人物が一人いる。

「グローエンスの柴山です。本日はよろしくお願いいたします」

俺は慌ててそれだけ言うと、プレゼンの準備を始めた。約束の時間前だというのに先方は準備万端で、一気に緊張感が増す。そのせいか、ホッチキス留めしてある資料をバサバサとファイルから落としてしまった。

「すっ、すみません」

「急がなくても構いませんよ。ちょうど今他の会議が終わったところなんです」

担当者の村上さんが優しげな笑顔で落ちた資料を拾ってくれた。

「あっ、すみません」

そうはいってもこの状況は完全に俺待ちだ。特に、一番奥の恐らく社長と思しき人物は背中を向けたままうんともすんともしない。

「……うちの社長は少し変わってるんです、気にしなくていいですよ」

村上さんが資料を渡しながらこっそり囁いた。俺は「はい……」と曖昧に頷くことしかできなかった。

ようやくプレゼンの準備が整い、俺は全員を見渡して口を開いた。プレゼンに関しては散々上司から指導されていたため、順調に進んだ。皆、資料にメモを取ったり頷いたりしてくれる。だが、その社長だけは、相変わらず後ろを向き、窓の外を眺めているようだった。俺はこういう型にハマろうとしない人が苦手だ。何を考えているのかわからない上に対策しようがない。だが、プレゼン自体には手応えが
あった。

一通り話し終わると、人事部長、その他部長らお偉いさん方が次々と質問を飛ばしてくる。興味は存分に引けたようだった。俺はそれにそつなく答える。

「社長、何かございますか?」

質問が一旦落ち着くと村上さんが社長にお伺いを立てた。

「そうだねえ……」

社長は何か考え込んでいるようだった。ようだった、というのは、未だこちらを向いてくれないからだ。社長の反応が全く読めず、再び緊張が襲ってくる。

「なんで君はこの教育サービスを売っているんだい?」

ポン、と投げられた質問に胸がドキ、と跳ねる。

「私が、ですか?」

「そう、君個人がだ」

「……えー、それはですね」

想定していなかった質問に俺は言葉を失った。

「ピンチかね?」

「……いえ」

意地が悪いと思った。どこか優しげな声が尚更嫌だった。だが、適当に切り抜けようと思えば切り抜けられる。ここは営業の場だ。

「私は我が社の教育システムに自信と誇りを持っています。グローエンスのカリキュラムは、社長自らが経験した長年のビジネスキャリアに基づいており、実践的な能力を高めるのにとても適しているからです。他社と比べても実績はダントツにあります」

でまかせではあるが、何とかこれで切り抜けられないだろうか。社長はしばらく何も言わなかった。沈黙に耐えきれなくなった俺は持っていたカンペを握りしめた。手汗でしわしわになっていた。

「あの……」

「残念だけど、今の君からは買えない。出直しておいで」

一瞬、なんと言われたのかわからなかった。だが、社長の言葉の意味を理解した途端、目の前が真っ暗になった。

気づいたときには先程いた一階のエントランスに立っていた。とてつもないショックのせいか、全てがあっという間のように感じた。夢を見たみたいだった。夢といってもとんだ悪夢だが。

気づけば隣にいる村上さんがどこか申し訳なさそうな顔で「柴山さん」と声をかけてきた。

「私も、なぜこんな結果になったのかわかりません。普段の社長は商品云々の厳しい話はあるにしても、あんなこと言いませんからね」

「そうですか……」

それしか言えなかった。俺はやっとのことで「本日はありがとうございました」と一礼すると、灼熱の夏空の下に出た。とぼとぼと歩きながらのろのろと上着を脱いでネクタイを緩める。

自信があっただけに愕然としていた。社長の質問への切り返しも、咄嗟のことにしては良くできたと思ったのに。

いつもは厳しい先輩たちも、テクフォードから問い合わせがあってから、自社始まって以来の大型受注と盛り上がって色々なことを教えてくれていた。営業成績が伸び悩んでいる俺に、期待をしてくれた。
一体、会社に何と報告したらいいのだろう。今頃オフィスではみんなが俺からの連絡を心待ちにしている。

大体、俺は有名大学卒の期待の新人として入社したにもかかわらず、実際に働いてみると営業の成績は悪く、期待外れのレッテルを貼られていることは自分でも薄々気づいていた。学生時代はサークルの代表を務めたし、ボランティアにも積極的に参加する、いわゆるキラキラした大学生だった。おかげでグローエンスに入社することができ、このまま順風満帆に過ごしていけると思っていた。けれど会社に入って精力的に営業して頑張っても、最終的に受注まで達成できることは少なかった。社会人になってから、自分の思うようにならないことが増えた。今回は偶然回ってきたチャンスとはいえ、大型受注で見返してやれると思っていたのに。

会社に帰りたくない。帰って何と言われるか。結果を聞き落胆する上司の顔を見るのはもう耐えられなかった。

今まで気づかないふりをして騙し騙し頑張ってきたが、今回のことで一気に自信が失われていくのがわかった。物心ついた頃に父親に出ていかれ、女手一つで育てられた。社会人になってからも、頑張っても成果は出ないし、よくよく考えてみれば、俺ってもしかして不幸な人生を生きてるのではないだろうか。生きていても、辛いことが多すぎる。

ここまで考えて慌てて頭を振った。いくら何でもネガティブになりすぎだ。それでも、まだ今からあと二つ営業回りが待っている。その後は会社に戻らなければならない。

もういっそ、このまま営業にも行かず会社にも戻らず逃げ出して、そのまま辞めてしまいたい。再び湧き上がる後ろ向きな思いに支配され、大きくため息をつく。だが俺は仕方なく携帯を取り出し、部長に電話をかけた。ワンコールですぐに繋がった。弾むあちらの声を聞くのがとても辛かった。それでも俺はなるべく暗い声を出さないように努めながら、今回の営業は失敗に終わったことを伝えた。

『……そうかい。なかなか簡単にはいかないね……また帰ってきたら詳しく教えてくれ。とりあえず、あとの二社頑張って』

部長も俺と同じように平静を装おうとしているのを感じる。俺は「ありがとうございます」と言って電話を切った。

行きは眩しく感じた太陽も、今は既に尽きた気力をさらに奪うための悪質な仕打ちのように感じてくる。駅まであと百メートルほどだ。気力と一緒に体力までも限界を迎えようとしているのか、何とも頼りない足取りだった。

「にいちゃん、にいちゃん」

突然聞こえた声が俺の思考をストップさせた。周りには誰もいない。俺が呼ばれているようだ。

「……俺?」

声がした方向を向くと、狭い路地にホームレスのような男がいた。灰色がかった髭をボサボサに生やし、ひしゃげた変な形の帽子にヨレヨレのTシャツと半パンを穿いている。そして、紫色のサングラスが完全に浮いていた。

「そうだよ、俺はにいちゃんを呼んだんだ」

今日は厄日か。厄介な奴に見つかった、と俺は空を仰いだ。

「靴を磨いていかないか?」

そのおっちゃんは俺の顔ではなく靴に向けてジロジロと不躾な視線を送っていた。確かに、まともに手入れをしたことがない革靴は、所々擦れたり汚れたりしていてお世辞にも綺麗だとは言えない。俺はおっちゃんの視線から逃れようと足を動かした。

「あの、急いでいますので」

断りを入れて足早に立ち去ろうとすると、「ほんとにそうか?」とおっちゃんは言った。

「急いでいるようには見えなかったけど」

このおっちゃん、ずっと俺を尾けていたというのだろうか。気持ち悪くなって少し体を離した。

「ほんとに、次の会社に行かないといけないので」

「俺には家に帰りたいように見えるけどな」

今度は俺の顔を見て、おかしそうに笑った。

「営業で失敗でもしたんだろう」

なぜそれをこの人が知っているのだろうか。そんな疑問さえも察したかのようにまたおっちゃんは口を開いた。

「こんな真昼間にスーツ着て『僕は不幸な人ですよ』ってアピールして歩いてたら、誰だってわかるぞ」

「……実際に不幸なんです」

何でも言い当ててしまうおっちゃんに腹が立ってそう言ってしまった。

「違う、不幸に見ているだけだ」

なぜかおっちゃんは断言した。「何を?」と首をひねるとおっちゃんは「世界」と言った。

「この世の中には、幸せな世界に住んでいる人と、不幸な世界に住んでいる人に分かれている」

突然何を語り出すのか、と思った。しかし、曇ったサングラスから強い視線を感じたような気がしてその場から離れるのをやめた。もうヤケクソだ。ここまできたらもう最後まで聞いてやろう。

「お前さんは、不幸な世界で生きることを自ら選んでいるだけだ」

「……選んでる? 実際に不幸なことはあるじゃないですか」

もちろん今日の結果は俺が選んだことではない。あの社長が変人だったのだ。

「世の中には親が死んだって喜ぶ奴がいるんだ」

「そんなの極論でしょ」

「極論だって真実だ。この世に不幸なことなんてない。辛いと感じることがある。それを不幸と解釈しているだけだ」

この人は、辛いことがありすぎてこんな考え方になってしまったのだろうか。そうでなければこんな格好で靴磨きなんてきっとやってられない。少し可哀想に感じた。

「辛いことがあったときに、自分は不幸な人間だ、不幸な巡り合わせを持っているんだ、って『不幸』と定義しちまうことがまずいんだ。こういう人のことを『不幸な世界の住人』と俺は呼んでいる」

「はあ……」

「たかが営業で失敗したからってどうした、辛いと感じるかもしれないが、ちっとも不幸じゃない」

このおっちゃんはどうやら俺を励まそうとしてくれているらしい。投げかけられるポジティブな言葉は意外と聞いていて少し心地よかった。

「お前さんが不幸な顔をしたら営業に失敗したっていう事実は変わるのか? 変えられないことを悩むことほど無駄なことはないぞ。……俺だって、悩んで過去や未来が変わるならとことん悩むさ。ただ、過去は変えられないし、どんな未来がやってくるかなんて誰にもわからない。だから、過去や未来に振り回されず、過去の事実を受け入れ、未来に備えて今に集中する以外、人にできることはない」

「……それもそうですね。じゃあ、『幸せな世界の住人』もいるんですか?」

そう問いかけるとおっちゃんは、よくぞ聞いてくれた、というように嬉しそうな顔をした。

「もちろん。それは『くよくよしても仕方ない、どうなるかわからんことにびくびくしても仕方ない、今できることを前向きに精一杯やるしかないんだ』って気づけた人だ」

「なるほど。……いいですね」

俺はそういう考え方ができる人が羨ましくなった。だから、このおっちゃんはこんな身なりでも幸せそうに見えるのだろうか。

「その二つの人種は、物理的には同じ世界にいながら、精神的には違う世界にいるんだ。いいですねって言ってる場合じゃねえよ、お前さんもそうなるんだ」

「なれるもんならなりたいです」

曖昧に笑うと、おっちゃんはムッと唇を曲げた。

「俺、頑張って準備してプレゼンに臨んだんです。そしたら出直してこいって……」

「出直してこいって言われたのか? 馬鹿野郎、それならちっとも失敗じゃないだろ」

馬鹿野郎と言われるのは初めての経験だった。しかもこんな赤の他人に。けれど不思議と苛立つこと
はなかった。

「それなら、お前さんにはまだできることがあるじゃないか」

「できること……?」

「もう一度お願いして商談させてもらうこと、そのための準備をすることだ」

そうか、俺にはまた次の商談があるのか。そう気づいた瞬間、嬉しい反面、気が重くなった。あれだけの準備をしてダメだったんだ。もうどうしたらいいのかわからない。

「また失敗したら……」

「そもそも、どうして上手くいかなかったと思う?」

「……思う? って……。そんなこと、あなたにわかるわけないでしょ」

「わかるさ。一目でわかったね。ズバリその理由は靴を磨かないからさ」

ここでやっと目の前のおっちゃんが靴磨きだということを思い出した。それにしても何てセールストークだ。営業マンの端くれから言わせてもらうと支離滅裂で強引すぎる。

「意味わかんねえって顔してるな。いいか、靴が綺麗だから売れるのではなく、靴を磨いているから売れるんだ」

「何が違うんですか」

「つまり、普段から靴を磨いているような人は売れるってこと。靴を磨くのと自分を磨くのは同じことだからな。自分を磨くことで内側から滲み出る人柄が相手に伝わり、信頼感を生み出すから売れる。そして、自分を磨いている人には、相手が自分を磨いている人かどうかわかるんだ」

よくわかるようなわからないような話だ。怪訝な顔をするとおっちゃんはニヤリと笑った。

「だから、会社の社長みたいな常に自分を磨いている人は、相手がどんな人間か簡単に見抜けるんだよ」

つまりあの社長は自分を磨いているために俺が磨かれていない人間であるとわかってあんな対応をしたと言いたいのか。おっちゃんの見抜いてやったり、という顔がまたムカつく。おっちゃんの理論でいうならば、この人も自分を磨いている、ということか。一流のアスリートは相手の体つきを見ただけで、どんな練習をしていてどんな強みがあるのかわかるという。きっとそれと似たようなことなのだろう。

「例えば、何気なく発した言葉で、この人がどんな本を読んでいて、どんなことを意識しているのか、そしてどんな人なのかを予測できる。そうやって内面を見透かされちまうんだ」

「内面って性格みたいなものですよね?……それは簡単に変えられるんですか?」

俺は僅かな期待を込めて聞いてみた。おっちゃんはうーんと腕を組む。

「変えられる。ただ、簡単には変えられない。とても時間がかかるぞ」

「じゃあ、今更どうにもならないじゃないですか」

「やってみなきゃどうなるかはわからない。今できることをやるしかないだろ。変化はまだまだでも、変わろうと思っている人と思っていない人では全く違うぞ」

それならば俺は少し一歩前に踏み出したということだ。なぜなら、ちょっとずつ、俺は変わるべきかもしれないと思い始めている。

「なら、何をすればいいんですか? 自己啓発本とか?」

「もちろん読んだほうがいい。本は生きていく上で大切なことがたくさん学べる。人は学生時代にはいい学校、いい会社に入るためにたくさん教科書や参考書を読むくせに、社会に出てからは、いい人生を送るために何も読まないからおかしい」

確かに、俺も卒論を書き終わってから本らしい本はほとんど読んでいなかった。

「本を読まないってことは、ヒマラヤのように高く険しい人生を、Tシャツ短パンにサンダルで山岳ガイドもつけずに登ろうとするようなもんだ。それでいて、人生が上手くいかない、苦しいと病んでいるから困る。そして、本を読むだけでわかった気になる奴が多いのもいかん。大切なことは、それを身につけることだ。そのためにはまず、習慣を変えることだ」

まさにTシャツ短パンにサンダルのいでたちをしているアンタに言われたくない、と思ったが、さすがに口を噤んだ。

「へえ……でも、自己啓発本に書かれているのはほとんど当たり前のことばっかりじゃありません?」

そう言うと、おっちゃんは大きく首を振った。

「馬鹿かお前、当たり前のことがみんなできていたら、誰も苦しんでなんかいない。自己啓発本なんて、大体当たり前のことを当たり前にやりましょうってことしか書いてない。そういうもんだ。だが、当たり前のことと感じた時点で、お前は頭では理解しているが、身についていないっていう証拠だ。身につきつつある人が読めば、まだできていないなと感じるもんだ。知識だけつけて、わかった気になるくら
いなら、俺はいっそ読まなくてもいいと思ってる。読むことで逆に苦しくなっちまうこともあるからな。まぁ、その理由は長くなるからまたいつかな」

「はい……どうも」

今度、があるのか。本当にこのおっちゃんは何者なのだろう。いつの間にか、ただのホームレス崩れの靴磨きには見えなくなっていた。

「今日お前さんに教えてやれることは一つだ。内と外を一致させろ」

俺は「何の?」と首を傾げた。

「自分のだ。自分の本心と外面だ。そのために、良い行いをしろ」

「……どういうことですか?」

「誰かに認められるためではなく、損得抜きで自分が良い行いと思えることをしろってことだ。……まだ理由は考えるな。とにかく陰でコソコソ良いことやってみな。それを続けていれば、間違いなく内面が変わってきて仕事も上手くいくようになる」

右に左に首を傾げながら俺はおっちゃんの話を聞き、とりあえずわかったような顔をして縦に首を振っておいた。

「とりあえず頑張れ。またわからなくなったら相談に来い。まぁ、ここにいるかはわからんけどな。ガハハハ」

そう言って最初から最後までわけのわからない話を延々としたおっちゃんは手を上げ、細い路地を歩き始めた。

「靴、磨いてないですよね」

何か言わなければと思い口から出たのはそんな言葉だった。

「人に靴を磨いてもらう奴になるな。自分で磨いてこそ意味がある」

おっちゃんはもう一度「ガハハハ」と大声で笑うと路地の向こうに消えていってしまった。

おっちゃんの話はやはりわかったようなわからないような感じだ。陰でコソコソ良いことをやって意味があるのか怪しいもんだ。そんなもの、自己満足の類でしかないだろう。

腕時計を見ると、思ったより長い時間が過ぎてしまっていた。俺には次の営業が控えている。幸い、余裕を持って予定を組んでいたおかげで、約束の時間までまだ少しあった。炎天下の中で立ち話をしたせいで、背中にじっとりとシャツが張りついている感触がする。

俺はさっきより怠くなった体を引きずりながら再び歩き始めた。今のは一体何だったのだろう。そもそもなんで他人にあんなことを言われなければいけないのか……そしてそれに縋ろうとしてしまうなんて。時間が経てば経つほど先程の自分はどうかしていたのだと思えてくる。おっちゃんによれば、あの社長は俺の内面を見透かしたと言っていたが、そんなはずはない。きっと、質問に答える際に戸惑いが露呈してしまったからだ。そこを準備しておいたほうがいいだろう。けれど心だけは少し軽くなっているような気がした。相手が相手だが、あんなにたくさん人と本音で話したのは久しぶりだった。

俺は大きく息をつくと、とりあえず午後からの訪問先に向かう電車に乗った。

逃げ出してしまいたい心に反して、体は機械的に動いてしまう。それでも、電車に揺られている間は営業失敗のことよりも、先程のおっちゃんの話が頭の中をグルグルかき乱していた。

営業先の最寄駅で降りると、さらに灼熱地獄となったアスファルトの上を歩いた。おっちゃんの話を聞いていたせいで、ランチをする時間がなくなってしまった。そもそも食欲なんてありゃしない。

再び会社までの道を歩いていると、目の前に続く大通りが暑さに滲むのに既視感を覚えて、次の取引も上手くいかないのではないかと思えてくる。こんな汗だくでやつれた格好ではそれもシャレにならないかもしれない。

入社二年目までは社用車が利用できないルールがあるため、不便なところに行くにも惨めに公共交通機関を使わなければいけない。誰だこんな変なルールを作った奴は、と誰ともなしに八つ当たりしたくなってくる。

やっと目的地が遠目に見えてくる頃、大きな交差点に差し掛かった。やはり栄えた場所は国道が通っており、交通量が多い。いちいち信号が長いのが俺の焦りに拍車をかけた。赤にならないうちに、と足早に横断歩道を渡っていると、ちょうど真ん中まであと五メートルというところで信号が点滅し始めた。もう走る元気もない。一旦赤になってしまえば長く待たされるだろう。やっぱり今日はついてないな、と思いながら中央分離帯脇の安全地帯で歩みを緩めた。すると、後ろからバタバタと二つの足音が聞こえてくる。後ろを振り返ると、小さな女の子とその母親だった。渡り始めたところで信号が点滅してしまったのだろう。ちょうど信号は赤になったところで、大きなエコバッグを肩から提げた母親は安心したように俺の隣で足を止め、息を切らしていた。しかし、俺とその母親の間を小さな姿が通り過ぎた。女の子だ。安全地帯で止まるということを知らないのか、向こう側まで渡ろうとしていた。そこに、矢印信号によって右折してくる車が差し掛かるのが見えた。嘘だろ、と思ったが止まる気配はない。母親の鋭い悲鳴が聞こえたのと同時になぜかあのおっちゃんの声が聞こえた。

――陰でコソコソ良いことをしろ。

気がつくと無意識に駆け出している自分がいた。いきなり目の前に現れた車に動けなくなっている女の子の小さな腕をわし掴み、後ろに思い切り引き倒す。彼女から手が離れた瞬間、鈍い音と共に俺は空中に浮いていた。それはまるで映画のスローモーションのように、アスファルトのシミが見えるほどゆっくりとした時間に感じた。しかし、アスファルトに叩きつけられると同時に今度は倍速再生がかけられたかのように、激しくグルグルと身体が回転した。まるで痛みは感じなかったが、目の前がブラックアウトしていく中「大丈夫ですか!」という声と子どもの激しい泣き声が聞こえた。

 

再び八月十日(月)

会社に着いても、俺はまだ呆然としていた。今まで忘れていたのが嘘みたいに、あの靴磨きのおっちゃんに言われたことや事故に遭った瞬間の光景一つ一つを鮮明に覚えていた。そして大手企業への営業は散々な結果になったばかりか、午後に控えていた二つの企業への営業にさえ行けなかったことも思い出した。

遅刻すれすれでよろよろとオフィスに入ると早々に部長が「社長に呼ばれている。一緒に来てくれ」
と言った。ついにきたか、と緊張が走るが、行かずにいられるわけでもない。俺は大人しく部長の後ろをついていった。

がらんとした広い部屋に入ると既に社長が待っていた。慌てて頭を下げて挨拶をすると、社長は労わるような目で俺を見た。

「先週は大変だったね。体はもう大丈夫かい?」

「はい、すみません……体はもう何とも……」

俺は小さくなって答えた。社長は「それはよかった」と笑顔を見せた。そして少しの間沈黙が落ちた。

「――それで、テクフォードのことなんだけど。どういう反応をもらったか、詳しく教えてもらえる
かな?」

沈黙に耐えかねたように部長が切り出した。

「……はい」

俺はしどろもどろになりながらも、その日の一部始終を話した。部長と社長は口を挟むこともなく、冷静に相槌を打ってくれた。『なんで君はこの教育サービスを売っているんだい?』というあの最後の質問も忘れず付け加えると、二人は首を傾げた。

「その答えが気に入らなかったってことなのかなあ」

社長はそれだけ言うと、うーん、と唸りながら立ち上がった。

「とにかく、担当者に改めて柴山君から謝罪してもらって、もう一回商談の機会をもらえるようにお願いしてみて。それと、最後の質問の答え、考えたら一度報告してくれ」

「はい、わかりました。ありがとうございました」

俺は忙しそうに大部屋から出ていく社長に部長と共に頭を下げた。部屋には俺と部長の二人きりになり、部長は俺に向き直った。

「まあ、色々大変だったと思うけど、あの日キャンセルしてしまった企業二社に謝罪を兼ねてすぐに訪問してきなさい。先方にはもうアポとってあるから」

「ありがとうございます。ご迷惑をおかけしました」

俺は再び頭を下げた。もしかしたら、罵声を浴びせられ説教されるかと思ったが、やはり事故のことで気遣ってくれたのだろう、最後まで落ち着いた口調で話しかけられ、安心した。

昼食を済ませると、早速一社目に訪問した。この会社は広告業を営んでいるそうで、会社のカタカナのロゴが洒落たフォントでエントランスの壁に嵌め込まれている。

挨拶をした俺を、綺麗な受付嬢が会議室まで連れていく。

「こちらでございます」

「ありがとうございました」

どこかで見た光景で、少し嫌な予感がしてきた。あの失敗が早速トラウマにでもなってしまったのだろうか。

会議室の扉を開け、待っていた社長と顔を合わせると細い目が俺を舐めるように見た。

「こんにちは、グローエンスの柴山です。先日はご迷惑をおかけしました」

頭を下げると、自分をいつもの営業モードのスイッチに切り替えることができたのがわかった。

「まあ、事情は聞いてはいるよ」

社長は机に肘をつくと斜めった姿勢で俺を見上げた。蛇のような目がじっと見据えてくる。直感的に俺の苦手なタイプだとわかった。

「でもさぁ、連絡してくるの遅すぎなかった? こっちは担当者と一緒に君を迎える準備をして待ってたっていうのにさ」

「申し訳ございません。それにつきましては、こちらでも深く反省しております」

俺は営業スマイルを何とか貼りつけたまま、再び頭を下げた。

「大体君、新人なんだよね? 普通君一人を寄越したりしないと思うんだけど。人手不足なの?」

「至らぬ点が多々ありましたこと、お詫び申し上げます。たくさんのご指摘恐縮ながら社に持ち帰らせていただきます」

目の前の男が発した言葉の意味が脳に行き渡らないうちに、条件反射で言葉を返す。それでも、体の筋は強張っていき、嫌な汗が滲んだ。

「おたくも思ってたほどではなかったな。社員教育の会社がこれでほんとにやっていけるのかねぇ」

「……うるせーな。ねちねちと」

社長の目が見開かれたのを見てようやく、今のが自分の言葉であったことを認識する。

「あっ、えっ……」

一気に営業の仮面が剥がれおち、自分が丸裸になった感覚がした。これは、以前にも味わったことがある。ふと、隣に気配を感じて横を向くと、俺と同じ顔をした男がしたり顔をしていた。

「お、お前、誰にそんな口聞いてるんだ!」

それまでわなわなと震えていた社長がやっと声を上げた。

隣のもう一人の自分の顔を呆然と見ると「どこ見てる!」と怒号が飛んできた。

「あ……違うんです! 今のは私の意思ではなくて、その」

「馬鹿にしてるのか、ふざけるなよ!」

社長の顔がみるみる赤くなっていくのを見て、火に油を注いでしまったことを知る。

言い訳をしようにも、どうやら社長には隣に立つもう一人の俺が見えていないようで、なす術もなく頭を下げ続ける。

「本当に申し訳ございません、すみませんでした」

「謝罪しに来た身分で有り得ないな」

「はい、おっしゃる通りです。本当にすみませんでした」

俺は声を絞り出しながらも脇においてあった鞄に手を伸ばし、逃げるようにして会議室を後にした。俺の隣で立っている奴は半笑いを浮かべたままだった。

会社から出ると、俺は無言でずんずんと歩き続けた。病院で初めて見たときと同じ格好をしたもう一人の自分がその後をふらふらとついてくる。

背中は冷や汗と炎天下の中を歩き回ったことによる汗でびっしょりと濡れていた。俺は立ち止まり、思い出したように上着を脱いで脇に抱えると、道路の向こう側に人っ子一人いない公園があることに気がついた。

俺はそこへ真っ直ぐ向かい、その中にある男子トイレに入ってくるりと後ろを振り返った。

「やってくれたな……! どういうつもりだ」

目の前には腑抜けた顔をした俺がいて、自分の顔だとはいえ、猛烈な苛立ちが湧き上がるのを感じた。

「何を怒ってるんだよ」

奴は呑気にそう呟いた。どういう状況なのかわかっているだろうに、反省の色は全く見られなかった。

「怒るに決まってるだろ! よくもあんなことを言えたもんだな。自分が何をしたのかわかってんのか?」

「自分が感じたことを正直に言ったまでだよ。お前、ああやって思ってただろ」

奴は小馬鹿にしたような顔であしらう。そもそも、なぜ今更このタイミングで姿を現したのだろうか。
病院で目覚めた夜に現れたっきり、その気配さえ感じなかったから夢の類として既に記憶の片隅に追いやっていたというのに。

「……だからって口に出してもいいことと悪いことの区別くらいお前にでもわかるだろ」

「オレは言ったはずだぞ、オレは本当のお前だって。いわば、お前は建前の代弁者にすぎない」

こいつが本当の俺のわけがあるだろうか。だとしたらとんだろくでなしだ。しかし、今の状況からして、こいつはただの幻覚ではなかったということになる。スーパーでぶつかってきた人やレジの小島さんにとんでもないことを言った時も、こいつは俺の口を借りていたということだ。

「とにかく」

俺は痛むこめかみを押さえた。

「俺はまだ次のアポがある。もう二度とあんな真似するな、っていうか今すぐ失せろ」

「それはお前に命令されることじゃない」

この応酬にうんざりした俺は奴に背中を向けるとトイレを出た。

広い敷地内に堂々と立つビルが、今度訪問する企業だった。ゲートから入ると蝉の鳴き声が降り注ぎ、アスファルトの上で料理をされているかのような暑さに拍車をかけた。

背後を歩く奴を気にしながら入り口の受付で会社名と名前を言うとそのまま会議室へ通された。やはり俺以外の人間に奴の姿は見えないようだ。

俺を待ち構えていたのは優しそうな顔をした男性だった。先程の企業とは違い、穏やかな笑顔で迎えられ、やっと少しほっとすることができた。

「こんにちは。グローエンスの柴山です。先日は誠に申し訳ございませんでした」

「いやいや、気にしないでください。私は部長の川島です」

お互いに頭を下げると、どうぞ、と席を勧められた。

遠慮がちに座らせてもらいながら恐る恐る背後を見ると、奴はいなくなっていた。どうやらここに来てやっと消えてくれたようだ。俺は胸をなでおろすと、今度こそ失敗しないようにと姿勢を正した。

「事故に遭われたんですって? それはまた大変でしたな」

「ええ。でもこの通りピンピンしておりますので大事ありません。そんなことよりも私の不注意でお待たせしてしまい、すみませんでした」

「だからそれは気にしないでください。お元気なようで何よりです」

人の良さそうな顔でうんうんと頷く川島さんを見て、とても救われた気持ちになった。自分が言えたことでもないが、先程の嫌味な社長と比べると、同じ人間とは思えなかった。

「あなたは本当に幸運でしたよ。実は私の息子も最近事故に遭いまして」

「本当ですか。ご無事でしたか?」

俺がそう言うと川島さんはよくぞ聞いてくれたというように顔を綻ばせた。

「それが骨折してしまって大変だったんですよ」

「それは災難でしたね」

「やっぱり軽自動車はダメですよ。いや、息子の場合は車で事故を起こしたんですけどね。幸いにも人にはぶつからなかったんですが電柱に激突してしまって」

事故といっても色々あるものだ。加害者になるのも被害者になるのもたまったものではないが、ほぼ無傷で裁判沙汰にもならなかった俺は、運が良かったとしか言いようがない。

「免許取りたてだし、燃費はいいっていうもんだから軽を買ったんですけどね、まさかこうなると知っていたらもうちょっと高いのをちゃんと買いましたよ。後悔先に立たずとは言いますけどまさにこのことなんだって身にしみてわかりました。柴山さんは車持ってますか?」

「あ、いえ。免許はとっているんですけどやはり電車のほうが使い勝手がよくて」

駅の近くに住んでいるので移動はもっぱら電車だし、車にかかる税金を思えば持たないほうが明らかに得だ。

「それならもし車を買う機会があれば軽はやめたほうがいいでしょう。それでもやっぱり電車は一番安全だし確実だね。若い人だとこの都会じゃ持ってる人のほうが少ないですよね」

「はい。周りで持ってる人は少ないですね。持ってても大体親の車なんかが多いですね」

「だろうねえ。そっちのほうが賢明ですよ。そういえばこの前――」

話が長い。

正直さっさと次の商談の約束を取りつけて帰ってしまいたかった。だが、ニコニコしている川島さんの話をどう打切ったらいいものかわからなかった。

俺が逡巡している間にも川島さんは幾度も話題を変えながら楽しそうに話す。俺はといえば、適当に相槌を打つことしかできない。

先程どっとかいた汗がエアコンの強い風に冷やされていくのを感じながら、俺は会話を切り出すタイミングを探していた。

「それじゃあこれはどう思います?」

川島さんがまた違う話をしようとしている。もう口を開くなら今しかないと思った。

「もう帰りたいんですけど。話が長いので」

「え……?」

「……あれ?」

脳が状況を処理するスピードより早く、体が動いていた。ガタッと大きな音を立てて立ち上がり、一瞬の間に自分がしでかした事を理解し、深々と頭を下げた。

「申し訳ございません! 失礼いたしました!」

川島さんもやっと何が起きたかを把握したのか、ぽかんと開いていた口を固く閉じた。

「いや……確かにこちらの話が長かったですね……」

弱々しい苦笑いを浮かべる川島さんに俺は申し訳なさが限界にまで達し、目の奥から堪えきれない涙が溢れ出るのを感じた。

「本当にすみません。すみませんでした」

「……ちょっと、柴山さん。大丈夫ですか……?」

泣きながら頭を下げ続ける俺に川島さんはおろおろと立ち上がると暗い面持ちで口を開いた。

「もう今日はお帰りになったほうがいいでしょう」

それから川島さんは最後まで優しくて俺の罪悪感は何倍にも膨れ上がった。

帰り道、少しだけ長くなった影は一つしかないが、俺の後ろにはもう一つ足音が響いていた。

最早怒りを通り越して途方に暮れ、振り返る気力もないまま元来た道をただ辿る。

そういえば早く会社に連絡しなければならないんだったと携帯を取り出すと、グローエンスから電話がかかってきていた。無論嫌な予感しかせず、恐る恐る会社に折り返すと、呼び出しの音が途切れた瞬間、激昂した部長の声が耳に入った。どうやら一社目の社長から会社のほうへ既に連絡がいっていたらしい。

『柴山! お前どういうつもりだ!』

入社してから滅多に聞くことがなかった怒鳴り声に身が竦んだ。

「す、すみません。おかしいんです。……自分が、自分をコントロールできないんです」

そんな言い訳を聞いてもらえるはずもなく、向こうからは大きなため息が聞こえる。

『……とにかく、さっさと帰ってこい』

「はい……」

俺は力なく返事をするとブツリと切られた携帯をなんとか上着のポケットにしまった。

そして一旦オフィスに戻れば、叱責の嵐だった。直ちに会議室に呼ばれたかと思えば、部長を含め営業部の上司に今日の一部始終を話すことになった。今朝社長や部長の優しさに安堵したこの場所で数時間後にはこうやって取り囲まれるなど思いもしなかった。恐る恐る二社目も失敗したことを報告すれば、どこからか重いため息が露骨に聞こえてきた。

縮み上がった俺は何とかこの状況を打破しようと考えたが、混乱した頭がさらに混乱するだけで、「自分の意思に反して」「口が勝手に」と言い訳せざるを得ず、周りは皆怪訝な顔をした。憔悴しきった俺はついになりふり構わず口を開いてしまった。

「信じてもらえないと思うんですけど……もう一人の自分が急に現れて、俺の口を借りて勝手に滅茶苦茶なことを言ってしまうんです」

「そんな言い訳が通用するか」と誰かが言ったが、それは自分が言ってしまったことを理解した俺も咄嗟に思ったことだった。それでも縋るような目で部長を見上げると、静かな目と目が合った。

「明日病院へ行ってきなさい」

「……病院?」

思わず聞き返すと、部長は静かに頷いた。

「先週頭を強く打ったんだろう? もしかしたら異常が見つかるかもしれない」

部長の言葉は「お前は頭がおかしい」という嫌味だったのかもしれないが、その言葉は俺をいくらばかりか救ってくれた。そうだ、病院に行こう。なぜなら俺はあんな人間ではない。事故のせいでやはり脳にダメージが残っているかもしれない。

「わかりました」

やっとのことでそう答えると部長はこの話は終わりだと言わんばかりに大きく頷き、背を向けると扉の方へ歩いていった。俺の横を通り過ぎた先輩は、不憫そうな視線を俺のほうへ寄越した。

肩を落とした俺を尻目に、皆が会議室を出ていった。しん、と静まり返ったこの部屋には正真正銘俺一人しかいなかった。俺は緊張の残る体を縮めたまま、どうかこのグローエンス内では失言することがないようにと祈った。

 

八月十一日(火)

朝九時。俺は事故でお世話になった大学病院に足を踏み入れた。朝イチで来たはずなのに外来は既にたくさんの人で埋まっており、待たされるのを覚悟した。慣れない大病院でキョロキョロしながら辿り着いた受付で、番号が手渡される。俺はそれを握りしめると脳神経外科の前の待合室に腰を下ろした。

しばらく待ったところで「五十二番の方~」と呼ばれ、診察室に通される。そして俺の検査地獄が始まった。

緊張しながら医者に自分の現状をありのままに伝えると、CTにMRIと病院内を歩き回った挙句、医者は脳の異常は何も確認できないと眉をしかめた。そしてお次は脳の血流を検査されながら、俺はわけもわからぬまま体の周りを回転する機械を眺めていた。

自分が今どこにいるのかよくわからないほど病院は広くて、診察室に戻る頃にはとっくにへとへとになっていた。

「先生、何かわかりましたか?」

俺はなかなか結論を言ってくれない医者に痺れを切らし、投げやりに尋ねてみた。医者はなんの感情も窺えない理知的な顔を機械のように真っ直ぐ向けた。

「検査では、何も脳に異常は見られなかったんですよ」

「……そうですか」

やっぱりそうだろうとは思っていた。脳に異常、といっても頭痛さえしないのだ。退院時の検査でも何ともなかった。

「でも、柴山さんの症状と発症時期を考えると、高次脳機能障害が疑われます」

「え? なんて?」

俺は突然飛び出した難しい病名に身を乗り出した。

「高次脳機能障害。これは脳の血管に異常が起きる、事故で頭を強く打った人に見られる症状なんです」

「は、はぁ……」

「でも、あなたは大事な話をしてる途中で突然怒り出したと言っていたでしょう。これは前頭葉を損傷した人に起こる症状の一部ではあるんですが、柴山さんの場合、前頭葉を含めどこにも異常は見られません」

医者はデスクの上の脳の模型を手のひらの中で回しながら前頭葉を俺に示した。

「つまり脳医学的には何も根拠がないので、もう一人の自分がいるということを考えると解離性同一性障害ということで精神科の分野になるかもしれませんが――」

俺はちんぷんかんぷんながらも、とりあえず医者の言うことに黙って頷いていたが、彼が「びまんせいじくさくそんしょうが~」と話し始めたところで話を遮った。

「あの、診断書を書いてもらえますか」

医者はぱちくりと眼鏡の奥から俺を見つめた。

「まだ確実な診断はできていませんが……」

医者が俺の状態を診断しかねていることは最初からわかっている。それに、難しい病名を聞いても自分にはなんの関係もないと直感的に感じ始めていた。

「いいです、その高次なんちゃら障害で。俺はそれだと思います。意識が戻った後、頭の前のほう結構痛かったんで」

でまかせを言うと、医者は脳の模型の前頭葉の部分をじっと見つめた。

そんなことよりも、俺には何より優先したいことがあった。

「もう仕事に耐えられないんです。早く休職届を出させてください」

「……そうですか、わかりました……。でも、またちゃんと来院してください。リハビリをすればきっと良くなります」

 

八月十四日(金)

無事手にした診断書には、軽度外傷性脳損傷とまた聞きなれない病名が書いてあった。それは昨日書き終えた休職届と一緒に通勤カバンの中へ大切にしまってある。一先ず、これでやっとこれからのことを考えられる。

会社はお盆休み中で、俺は出社しなくてもいいことに胸をなでおろしながらも、明々後日の会社でまた皆と顔を合わせることに恐怖を感じていた。

そして母さんと会うこともなんとか回避した。「お盆は何日に帰ってくるの」と電話があったが、母さんに何か聞かれるのが怖くて結局今年は行かないと言ってしまった。母さんの前では自分を誤魔化しきる自信がなかったのだ。心配をかけたくはない。

だが、今日は真紀と会う約束をしていた。彼女にだけは俺の現状を知ってほしかった。いや、本当は知られたくなどないが、母さんと違って近くに住んでおり頻繁に会う分、休職することはどっちみちバレてしまう。それならば、早めに話したほうがいいと思ったのだ。

午後三時、突然電話がかかってきた。アクション映画を見ていた俺はクライマックスにもかかわらず慌ててリモコンの一時停止ボタンを押すと携帯に飛びついた。画面には「真紀」の文字が表示されている。

「もしもし?」

何となく嫌な予感がしながら電話に出ると、真紀の申し訳なさそうな声がたくさんの雑音と共に聞こえてきた。

『もしもし健太郎、突然でほんと悪いんだけど、今日行けなくなっちゃった』

嫌な予感は的中し、俺はガックリと肩を落とした。

「そっか。残念」

『ほんとにごめんね! じゃあ、来週の土日はどう? 私が奢るからさ』

どうしてドタキャンされたのか、理由を聞いてみたかったが、気まずくなるのが怖くて、俺はぶっきらぼうに返事をした。

「来週の土日はまだわからない」

『そっかぁ。じゃあまたわかったら連絡して』

「了解。……それじゃ」

『うん、ごめんね。またね』

電話はあちらから切れた。俺はいつものホーム画面に戻ったスマートフォンを見届けて電源を切ると、リモコンの再生ボタンを押した。

崖から落ちかけていた主人公が真っ逆さまに落下していった。

 

八月十七日(月)

俺は出勤してくるなり部長の机へ真っ直ぐ向かい、休職させてください、と率直に伝えた。営業部の視線が俺に集まっているのを痛いほど感じていた。それでも、予め手に持っていた休職届と診断書を差し出すと、部長はそれらを静かに受け取った。

「私も、それがいいんじゃないかと思ってたところだよ」

「……ありがとうございます。たくさんご迷惑をおかけして申し訳ありません」

部長にだけではなく、こちらを見ている皆にも深々と頭を下げる。見かねた部長に肩を叩かれるまで、俺は頭を下げ続けた。

その日一日は始末書と休職の手続きに追われた。それから、腫れ物に触れるように俺を遠巻きに見る先輩と、「大丈夫か?」と席まで来てくれる同期に申し訳なさを感じながら、俺は机を片づけた。

振り返ってみれば、なんの輝かしい成績もなく、挙げ句の果てにこんなに会社に迷惑をかけて逃げるように休職に走る自分が情けなくて仕方がなかった。休職を決断するのは自分でもびっくりするほど早かった。逃げ足だけは速いんだな、と頭の中でする声は俺のものか、それとももう一人の俺のものか。奴は営業で失敗してからお盆に一度だけ姿を現しただけで、ずっと大人しくしていた。

帰り際、俺がロッカーの中を片づけていると、吉田がさりげなく俺の横に立った。吉田は同期の中でも入社してからずっと仲が良く、とても気のいい奴だった。営業の成績も良く、上司からの覚えも良い。
どうして俺なんかと一番仲がいいのかよくわからなかった。

「どのくらいで戻ってこれそう?」

吉田はいつもと同じ調子で聞いてきた。

「……まだわかんないけど、まあなんとかなるでしょ」

「そっかぁ。いつか戻ってくるにしてもそれまで寂しいなあ」

そう言って一瞬本当に寂しそうな顔をすると、すぐににやにやしながら腕や腹をつついてちょっかいを出してくる。それがくすぐったくて俺は笑った。

「馬鹿、中学生かよ」

「だって寂しいんだもん」

ロッカーの中はすっかり綺麗になり、俺は吉田と出口に向かって歩いた。

「そうだ、今から飲みに行かない? 奢るよ」

「ありがとう、でも遠慮するわ。そんな気分にはなれない」

俺はきっぱりと誘いを断ったが、吉田は諦めないようだった。

「きっと飲んだら少しは元気出るって。今日は月曜日だし会社の人にも会うこともないだろ」

ビルのロビーに差し掛かり、吉田の声は静かな壁に反響してよく響いた。

「ね?」

やけに明るい声が耳にぐわんぐわんと響いたと思ったら、今度は俺の怒鳴り声が響いていた。

「どうせ俺のこと見下してるんだろ! 厄介者が消えたことが嬉しいんだろ! お望み通りとっとと出ていってやるよ!」

ぽかん、と口を開けたままの吉田の顔を見て、俺はそのままドアを突き破らんばかりに猛スピードでその場を去った。何てことだ。こんな最後の最後に、しかもよりによって心配してくれた吉田に向かって。

ビルを出ても足は勝手に走り続け、息が上がって胸が苦しかった。見慣れたオフィス街を駆け抜け、駅の改札を通り電車に飛び乗った。

やっとの思いでアパートの玄関に辿り着く頃には、両頬が涙ですっかり濡れていた。

ざっとシャワーを浴びた俺はソファの上によろよろとへたり込んだ。テレビの前のローテーブルに行儀悪く腰掛けるもう一人の俺がこちらを一瞥する。電車の中でも気配を感じていたが、こうして夜部屋に二人きりになると、病院で初めて顔を合わせたときに感じたものとは別の恐怖に包まれた。何をしでかすのかわからないという不安がずっと俺につきまとっている。

「お前はどうして俺をこんなに苦しめるんだ……?」

奴は気だるげな視線を俺に寄越すと、俺をじっと睨みつけた。初めて強い意思を感じさせる眼差しだった。

「オレはお前が嫌いだから」

それだけ言うと、ふい、と顔を逸らしてしまう。

真正面から嫌いと言われることは初めてで、ハッと息を呑んだ。それと同時に、俺と全く同じ姿のお前がそれを言うのか、と心が抉られるような感覚がした。

「……お前は俺なんだろう? なら俺に協力するべきじゃないのか?」

そう問いかけても奴はこちらを見ることさえしなかった。だんまりを続ける。

俺は奴を視界に入れないようにしながらとりあえずこれからのことを考えた。

会社に一分一秒でも長くいると、また何かやらかしてしまいそうで、後先考えずに休職を決めた。休んだだけでは何か変わるとは思えないし、今後の身の振り方を考えなければならない。そのためにはとりあえず、これまでの俺の失言を振り返ってみることにした。今日まで、思い出すのもぞっとして記憶に無理矢理蓋をしようとしていたが、それで忘れられるものではない。それに、無視したままではまた同じ過ちを繰り返してしまいそうだった。

初めて思いがけない言葉を言ってしまったのは、退院後スーパーでぶつかられた時だった。そしてその後すぐにレジの小島さんに失礼なことを言ってしまった。それから、営業に行けなかった企業に謝りに行った時。二社ともだ。そしてさっき、吉田に……。そこまで思い出し、また罪悪感をひどく感じた。

それらに共通する条件が何かないかと頭を巡らせたが、相手は男女も時間も場所も関係ない。ただ、何か言ってしまう直前、俺はいつも苛々していて、そして、言ってしまった言葉は嘘でも何でもなく、正真正銘俺の本心だった。それだけに、その後の後悔も半端じゃないのだ。

このままでは、仕事だけじゃなく、大切な人まで失ってしまうような気がした。

俺は本当に頭がおかしいのだろうか。だとしたら、あの医者が言ったようにリハビリをすれば良くなるものなのだろうか。

再び斜め前に座り込んだもう一人の自分に目を向ける。奴は紛れもなくそこに存在した。幻覚などではない。誰かにそれを訴えたくてたまらなかった。けれど、誰も信じてくれないだろうし、やはり病院に行けと笑われるだけだろう。

最初に母さんの顔が浮かんでとんでもないと打ち消し、それから真紀の顔が浮かび、彼女だけには嫌われたくないとまた打ち消した。それから吉田のあのぽかんとした顔が思い出され、目尻に涙が滲んだ。
俺には、他に心から頼れる人間などいなかった。友達は多いほうだと思っていたが、その友達とやらはこんなときには顔も浮かんでこない。弱みを見せられるほど信頼関係を築けていないのだ。

たとえ何と思われようと後腐れのない頼れそうな人間、最後に思い浮かんだのはあの靴磨きのおっちゃんの顔だった。

「……マジ?」

自分で自分に問いかけてみるが、どこか確信めいた自分がいる。あの何でも見通すおっちゃんならば、今の俺のことも少しはわかってくれるかもしれない。もし、頭がおかしいと笑われたとしても、ただの通りすがりの仲だ。以前会った路地の辺りにでも行けば、会えたりしないだろうか。

俺は明日、おっちゃんに会いに行くことに決めた。唯一頼れる人間があの怪しい男か、と少し落ち込みもしたが、それよりもわかってくれるかもしれない、という期待のほうが大きかった。

あの人に会ったのは確か小塚駅だったか。以前出くわした十二時頃に駅に着くための出発時間を調べようと、やっと立ち上がり玄関に放り投げたままの通勤カバンから携帯を取り出す。ロックを解除すると、新しいメッセージが来ていることに気づいた。吉田からだ。それを開くには勇気がいった。

『今どこにいる? ちゃんと家帰ったか?』

『俺、しつこかったよな。お前の事情も考えずにごめんな』

『もしなにか困ったことがあればまた連絡してな』

立て続けに送られたそれらの文章に目を通すと、先程とはまた違った意味で目の奥が熱くなった。普通なら怒ってもおかしくないのに、俺の心配をしてくれるなんて、本当に優しい奴だと思った。今度はちゃんと素直に感謝の意を表さねばとその場で返信すると、リビングに戻った。

ローテーブルの上にいたはずのもう一人の俺の姿は、もうどこにもなかった。

 

八月十八日(火)

『小塚駅~、小塚駅に到着です。お降りの方はお忘れ物のないようにご注意ください』

アナウンスにハッと窓の外を見ると、見覚えのある風景が目に飛び込んできた。閑静な住宅街の中にある大通りの先に聳そびえ立つビル。俺に変な質問をしてきた社長はまた窓の外を眺めていたりするのだろうか。

時間は前回おっちゃんに会った時と同じ正午前。今日は今にも雨が降り出しそうな空模様で、おかげで暑さはそれほどでもないが、ねっとりとした湿気がまとわりついてくる。改札を出て、はやる気持ちを抑えながら、駆け足気味で駅の階段を降りた。

大通りに出ると、やはり静かな町並みが続く。擦れ違う人も少なく、こんなところにあのおっちゃんがいるのだろうかという疑念が募っていく。そして、以前話し込んだ細い路地の前に差し掛かり立ち止まってもおっちゃんの姿はなかった。それでも、俺は諦めきれずに辺りを歩き回った。あのヘンテコな姿ならいれば目立つだろうに、探しても探してもおっちゃんどころか誰一人いなかった。

「……はぁ」

わかっていたことだが、落胆が拭えず大きなため息をつく。途方に暮れた俺はへたり込むようにシャッターが下ろされた店の前の段差に腰を下ろした。

あの時たまたまいただけなのかもしれない。名前もわからないホームレスまがいの人を探す手立てなど考えもつかなかった。

時折どこかの犬が吠えるだけで、やけに静かなこの場所にいると、気づかないふりをしていた孤独感が忍び寄ってくるのを感じた。藁にも縋る思いでここまで来たが、もうどうしたらいいのかわからなくなってしまった。膝を抱えて頭を垂れると、お先真っ暗な気がした。

いつとんでもない言葉を言ってしまうかわからない状態では、日常生活もままならない。一生あいつと付き合っていかなければならないかもしれないと思うと将来を思い描くのも億劫だった。

「なーにやってんだ、にいちゃん」

頭上から降ってきた声にガバリと顔を上げた。

変な色のサングラスがピカピカと胡散臭く光っているのが目に飛び込んで、ついに会えたのだとわかった。

「やっと見つけた……!」

「いやいや俺が見つけたんだよ」

俺は勢いよく立ち上がるとやけに汗をかいた顔からつま先までまじまじと見つめた。長年会えなかった恋人に再会したってこれほど嬉しくはないだろう。

「今日は変な帽子被ってないんですね」

「あー、今日は急いで出てきたからな。いや、そんなことよりお前さんはどうしてまたこんなところにいるんだ」

俺はゴクリと唾を飲み込んだ。

「あの、相談したいことが……。話を聞いてもらえませんか?」

おっちゃんの表情はどぎついサングラスのせいでわかりにくかったが、しばし考え込むように腕を組むとニヤリと笑った。

「その前に靴をよく見せてくれるか?」

「えっ、はいどうぞ」

俺は、何も考えず引っかけてきた通勤靴を履いた足を少し前に出した。

おっちゃんはそれを見て「ありゃー成長してないなー」と笑った。そういえば、靴を磨くことが自分を磨くことになるとか言われた気がする。だが今の俺に靴なんか気にしている余裕はなかった。俺は矢継ぎ早にあの後すぐ事故に遭ったこと、それからというもの、もう一人の自分が現れ俺を苦しめていることを話した。

これまでの経緯を聞いたおっちゃんはどんな反応をするのだろう、とドキドキしていたが、もう一人の自分のことなど聞かなかったかのように、やたらと俺の体の心配をしてきた。

「いや、目の前で女の子が轢かれそうになったとき、あなたの言葉が蘇ったんですよ」

「俺の言葉……?」

「そうそう、『陰でコソコソ良いことをしろ』って。言ってましたよね」

そう言うとおっちゃんは深くため息をついた。

「良いことって、そんなのコソコソどころじゃないだろ、命を大切に……ああもう。叱ったらいいのか
褒めたらいいのかわからんな……」

こんなにも心配してくれ、やけに狼狽するおっちゃんを見ていると、もしかしたらすごく優しい人なのかもしれないと心が温かくなった。

「それ、俺の母も同じこと言ってました」

「……そうかい。それで……なんだったっけ。つまり、もう一人の自分が出てきて、そいつが仕事から何まで妨害するってことか?」

おっちゃんはフフッと笑い声を漏らしたかと思ったら大笑いをした。俺の体は硬直して次の瞬間汗が噴き出た。神妙な顔で話していた先程の自分が恥ずかしくてたまらない。

「も、もういいです! 信じてもらおうと思った俺が馬鹿でした」

ついさっきおっちゃんを優しい人だと思ったが、勘違いだったようだ。背を向けようとすると、慌てて「違う違う」と引き留められる。

「当たり前のことを真剣に悩んでるから笑えちまってよ、すまんすまん」

「ん? 当たり前?」

聞き間違いかと思って繰り返したが、おっちゃんはうんうんと頷いた。

「そりゃ、当たり前だ。誰しももう一人の自分がいて、そいつとどうやって付き合っていくか悩んでるんだ」

「嘘だ……」

「もちろん俺にもいる。といっても、俺の場合はちょっと違うかもしれないけど。……まぁそれはいいとして。多くの人間がもう一人の自分がいるにもかかわらず、その存在にすら気づかないまま、相反する心を持て余して葛藤している」

当たり前のようにもう一人の自分がいると言ってのけるおっちゃんは、何か誤解をしているのでは? と思えてくる。

「あの、心の話とかではなく、ほんとにそこにいるのが見えるんです」

「そもそも目に入ってくる情報が正しいという考えがおかしい。夢だって見れば、見間違いだってある。
つまり意識の問題だ。今まで心の中で自分の本当の気持ちに蓋をしていたお前さんは、とっくに限界がきていたんだ。多分事故のショックがきっかけになって押さえ込んでた鬱憤がコントロールできなくなっちまったんだろ。それで自分が具現化して見えちまうんだ」

久しぶりにおっちゃんのわかったようなわからないような話が始まった、と思った。

「というか、俺にももう一人のお前ってやつは見えるぞ」

「えっ?」

俺は自分の周りを見回した。今日はまだ現れていないと思ったのに。

「いや、今じゃないよ。この前会ったときにな、なんとも世の中に不平不満がありますって顔したガキが、斜に構えてやがったよ」

「事故に遭う前から見えてたんですか……?」

「まあある程度はな。もう一人の自分のことがよくわかっている人は、他人のもう一人の姿もなんとなく見えるもんなんだ」

どうやらおっちゃんは俺なんかよりよっぽどもう一人の自分がどういうものか知っているようだった。
以前の『幸せな世界の住人』の話のときは内心半信半疑だったが、自分に現実味のない出来事が起こった今となっては、おっちゃんの突拍子もない話も素直に聞けた。

「それはそうと、本来、人は二人いる。頭の自分と心の自分だ。その二人がお互いに認め合っていれば苦しくない。だが、お互いがいがみ合っていればそれは苦しくて仕方ないだろう。わかりやすく言うと、自分のことが嫌いって言う奴がいるだろう」

「……俺もそれです」

そう言ってからハッとした。昨日、奴に言われた「オレはお前が嫌いだから」という言葉を思い出した。

「そう、お前みたいに内側の自分の考え方が嫌いで、外側の自分はそれを認めたくないとそいつが外に出てこないように閉じ込めている。すると、外側に出たいという内側の自分と、内側に閉じ込めておきたいとい外側の自分がぶつかり合って苦しくなるんだ」

「……なるほど」

「内側の自分が『○○したい』と考えた時、外側の自分は『そんなことをしては駄目だ』と抑制する。つまり自分の心の要望を自分で打ち消すことをしている。その作業はお互い苦しくてストレスになる」

では俺の場合、好き勝手振る舞うあいつが「内側の自分」で、それを抑えきれなくなって苦しめられているのが「外側の自分」ということなのだろうか。

「お前さん、人に好かれたいか?」

おっちゃんの突然の質問に「そりゃ、誰だってそうでしょ」と答えた。

「簡単に言うと、そのいい人に思われたい好かれたいというごく当たり前の考えが、自分を苦しめることになる。お前さん、彼女はいるのかい?」

再び突然の質問。俺は「まあ」と答える。そうするとおっちゃんの眉毛が楽しそうに動いた。

「じゃあ彼女の前ではいい格好がしたいだろ? 心の中の自分を隠して、頭が考える格好いい彼氏像を作り出してそれを自分だと見せようとしている。これを俺は『つま先立ちの恋愛』と呼んでいる」

「なんですかそれ」

あまりにも真面目くさった顔で言うもんだから俺は思わず笑ってしまった。

「相手に少しでも自分を良く見せるために、ずっとつま先立ちをし続けて踵をつけるタイミングを失い、疲れてしまうことだ。これは恋愛に限った話ではなく、対人関係全てに当てはまる」

俺は真紀相手に「つま先立ち」をしていたのだろうか。自問すると思い当たる節が多すぎて情けなくなった。

「そんな心と頭の摩擦状態を放っておくと、どんどん苦しくなってきて、いつか外側の自分が耐えきれなくなり内側の気持ちが溢れ出してしまうんだ。さらに内外の不一致は自分では隠しているつもりでも、わかる人から見たらわかってしまうもんだ。お前さんだって誰かと話している時、相手がニコニコしているにもかかわらず、その笑顔に違和感を感じることがあるだろ。それは相手の内側を感じ取ったから
なんだ」

俺はひたすら首振り人形のようにただただ頷くことしかできなかった。異論はない。やはりこのおっちゃんには何でもお見通しなことがわかった。

「だからこの前の社長さんもお前の内側を感じ取ったんだろうな」

「えっ……?」

そういえば、テクフォードの営業失敗後に初めておっちゃんに会ったのだった。なるほど、その社長のことまでお見通しというわけか。

「それで、出直す準備はできてるのかい?」

「……いえ、それはまだ。社長の質問にまだ上手に答えられる気がしないんです」

グローエンスの社長からも、その答えがまとまったら報告するように言われていたが、結局何もわからぬまま休職届を出してしまった。恐らく営業部の誰かがまた俺の代わりに行くのだろうが、その質問も引き継がれるだろう。その人は何て答えるのか、気になった。

「休職したところで、この状態じゃ仕事に復帰しても営業が上手くいくわけがない」

「そんなことはわかってますよ。でも、どうしたらいいんですか。内側の自分を閉じ込めるのは駄目、だからといって、内側の自分をそのまま出したりなんかしたらそれこそ大変なことになりますよ」

今の俺みたいに、と続けた言葉が明らかに拗ねたような言い方で少し恥ずかしくなった。

「そりゃそうだ。だったら内側の自分を変えたらいい」

「え? 内側の自分を変える?」

「つまり、もう一人の自分が悪さをしないためには、そいつを成長させてやらないといけないってことだ」

内側の自分とは、いつも苛々したあいつのことだろうか。何度言い聞かせても俺の迷惑になるようなことばかりしてきたが、おっちゃんは軽く言ってのける。

「内側の自分って本心ってことなんですよね? 本当の自分なんて変えられないですよ」

「じゃあお前さんは生まれた時からそんな歪んだ性格だったのか?」

生まれた時、小さい自分がどんな性格だったかなんて覚えていないが、確かにおっちゃんの言う通り、これは俺がこれまで生きていく中で作り上げてしまった性格だと思った。

「俺は違うと思うぞ。長い年月の中で、徐々に捻じ曲がってしまった結果が今のお前さんだ。だから、変えようと思えば今からでも変わるもんだ。ただ、大人になるにつれ、内側の自分を変えようとせずに外側でコントロールしようとしてしまうんだ」

「まあ、手っ取り早いですからね」

これにも身に覚えがありすぎる俺は曖昧に笑った。

「するともう駄目だ。ちっとも成長しない。知識だけついて、一見成長したように見えるが中身だけ未熟なままだ。それによって内外の摩擦がひどくなってくる」

「でも手遅れってわけではないんですよね……? 何をしたらいいんですか」

「それは、前にも言ったが、自分のために自分を磨くことだ。すると徐々にだが心のほうから変わってくる。そしてやがて心と頭を一致させてやるんだ」

いつまでも抽象的な話をするおっちゃんに焦れてくる。ここまでで人間には本心と建前があることはわかった。

「もっと具体的に言うと?」

「世間では良い習慣を身につけろっていうけど、つまりそういうことだ。今日お前さんに助言できるのはこんなところだ。あれこれ言われて頭が混乱してるだろ?」

「まあ……」

おっちゃんの答えに拍子抜けした俺は少し気落ちした。もっと目新しい教えがあると思っていた。それでもおっちゃんは話し続ける。

「人間ってのは、自分で気づかないと身にならないものだ。だから実際に身をもって感じろ」

そう言っておっちゃんは胸元から小さなメモとペンを取り出すと何やら書き始めた。

「何ですかそれ」

「課題リストっつーやつだ。ほら」

おっちゃんは書き終わった紙を千切ると俺に差し出した。

【課題】

自宅、公共にかかわらず、使ったトイレを毎回綺麗にする

町でゴミを見かけたら拾う

困っている人を助ける

※以上の行為をできるだけ周りに気づかれないようにやる

「トイレ掃除? そんなことですか?」

俺はまた拍子抜けした。

「世界的企業の社長や、芸能界の大御所がやっていたりするだろ。あれ、何でだと思う?」

「トイレが綺麗だと金運が上がるって聞いたことあります。でもあれ本当なんですかね? 怪しいもんです」

俺の馬鹿にしたような態度が伝わったのか、おっちゃんは呆れたような顔をした。

「馬鹿だなお前は。トイレが綺麗だからお金持ちになるんじゃない、トイレを綺麗にできる人だからお金持ちになれたんだ。いいか、トイレ掃除っていうのはな、誰も見てないところで誰のためでもなく良い行いをすることだ。つまり、それができる人というのは、どんな場面でもそういう気遣いができる人ってことだ。そんな人を嫌う人がどこにいる? そうやってみんなが応援してくれて仕事でも成果を出し、
結果としてお金持ちになれたということだ」

長々と話しながらおっちゃんはまた何かメモ帳に書いていた。

「そんなもんですかね? べっぴんさんになるっていうのも?」

「トイレさえ綺麗にできないやつの顔がどうして綺麗になるんだよ」

その言葉には俺も納得した。

「じゃあまた話が聞きたくなったらここに来い」

おっちゃんは突然帰る素振りを見せた。俺は慌てておっちゃんに詰め寄る。

「もう行ってしまうんですか」

「俺だって忙しいんだ」

そう言いながらおっちゃんは今書いていたもう二枚のメモを俺の胸に押しつけた。

「何ですかこれ」

「ミッションと自分相談」

ミッションとはまたかっこいいな、と的外れなことを考えながらメモの内容を目で追った。ていうか自分相談ってなんだ?

「えっどういうことですか」

疑問しか浮かばない俺におっちゃんはまた「靴、磨いとけよ」と勝手なことを言いながらずんずんと路地の向こうに歩いていってしまう。

「えっ、あの……! 今日は本当にありがとうございました!」

とりあえず言えていなかった礼だけ小さくなる背中にぶつけると、俺はもらった三枚のメモを大切にポケットにしまった。

おっちゃんを見送って肩の力を抜くと、今になって喉がカラカラになっていることに気づく。無我夢中でここに来たから気づかなかったが、おっちゃんに飲み物くらい渡すべきだった。

「そういうところだよなぁ」

俺は気遣いが足りなかったことを反省しながら家路についた。

その日の夜、晩御飯と風呂をさっと済ますと、今日おっちゃんに言われたことを忘れないようにノートに整理してみた。

自分のためにいいことをする習慣をつける、か。それを意識して育ってきたならまだしも、おっちゃん曰く捻じ曲がった大人の俺がそれを身につけるのは骨が折れるだろう。だが、事情が事情だ。とにかく意識して実践しまくるしかない。

一先ず、課題リストの一番上にあるトイレ掃除からやってみることにした。

便器の前に立ち、ブラシを構える。何もかも手探りだ。これまで、まともにやってきたこともなかったので所々汚れがこびりついていた。だが、二十分ほど奮闘した末、裏の見えないところまで綺麗にすることができた。俺は意外と完璧主義なのかもしれない。やらないときは微塵もやらないが、一度やる気を出せば完璧に仕上げる。

しかし、終わってみると確かに清々しい気持ちにはなったものの、これで内側の自分が成長しているとは思えない。本当にこんなことをやって意味があるのだろうか。

ピカピカのトイレを前に佇みながら考え込むが、いやいや、と頭を振った。とにかく信じてやってみるしかない。なぜなら俺にはもうおっちゃんの教えしかないからだ。

そして、俺には大きな課題が一つある。トイレ掃除なんかでへこたれている場合ではない。

【ミッションの内容】

明日、以下の場所を訪ねろ

○○県△△市□□町××

数日泊まれる用意を持っていくこと

先方に話はつけておく

帰ってきたらまた俺のところに来い

乱雑な文字を見つめながらため息をつく。メモ一枚を渡されただけで詳しくは教えてくれなかったが、とにかく指示通りに行ってみるしかない。それにしても、先方には話をつけておくとはどういうことなのだろうか。そして俺のことを何と言うつもりなのだろう。考えれば考えるほど不安になってくる。だが、こういうときこそ自分相談とやらをやるべきかもしれない。正直なところ、何だそれはと言いたいところだが、これからまだ会う機会もあるだろう、嘘はつきたくない。一回くらいはやっておいたほうがいいかもしれない。

【自分相談のやり方】

目をつむる

自分の姿を鮮明に思い浮かべる

向かい合って座ってもらう

気になっていることを質問する

相手に答えてもらう

また、反対に向こうからの質問に答える

これをひたすら繰り返す

俺はソファに腰掛けると、早速瞼を閉じてみた。鏡を見なくとも見慣れてしまった自分の姿を思い浮かべる。そういえば、奴が皮肉げな笑みを浮かべていることはよくあっても、笑っている顔を見たことがない。だからなのか、脳内では仏頂面したもう一人の自分が目の前のローテーブルに腰掛けていた。

(どうしてお前は社長や吉田にあんなことを言ってしまったんだ?)

『思ったことを言っただけだ』

すぐに答えが返ってきて驚いた。俺も内心では全て答えが出ているということなのだろうか。そして、脳内の自分は時折現れる奴と同じことを言うのは偶然なのだろうか。

気を取り直して質問を続ける。

(そんなことを言ったら失礼だとは思わなかったのか?)

『じゃあ、言わなくても心でそう思うことは失礼じゃないのか?』

(確かに、それは否定できない……)

『言わなければあの人たちは一生自分の振る舞いに気づかないままだ』

(だからといって、あんな乱暴な言い方することないだろ)

『それくらいオレはムカついたんだよ』

(正直になって損をするのは結局俺自身だ)

『それでも、我慢をしている間お前は辛かった』

(あー、なんだっけ。俺とお前でギャップがあるからこんなに苦しいことになるんだ、そうおっちゃんが言ってた)

『だから?』

(とりあえずお前を叩き直す)

自分にイメージに向かって指を突きつけると、フン、と鼻で笑われる。

『それはお互い様だろ』

自分が自分ではないかのように、俺の知らないところでポンポンと会話が生まれていく。それが面白くて俺はもっと目の前の自分と話してみたくなった。

「ていうかお前それ目つむる必要ある?」

「!?」

突然耳から届いた声に俺は目を開けた。……つもりだったが、瞼を閉じていた先程と微塵も変わらないもう一人の自分の姿が、ローテーブルに行儀悪く腰掛けている。

「お前っ! 急に現れて何の用だ……!」

今日初めて見る奴の姿に俺は咄嗟に警戒態勢を取る。

「何の用って。今まで話してたじゃん」

「え?」

また馬鹿にしたような、けれど気のせいかもしれないが少し親しみのある顔が向けられる。

「目を開けても閉じてもオレはオレだけど」

「いやいや、自分にびっくりさせられるなんてそんなおかしな話があるかよ」

「実際びっくりしてんじゃねえか。いい加減認めろよ。オレがもう一人の自分だって」

俺はここでやっと理解した。俺は、俺の本心、つまりもう一人の自分とやらを制御しきれていないということを。

 

修行

第二章

八月十九日(水)

『山ノ池、山ノ池~。お降りの方は、お忘れ物のないようにご注意ください』

ガタン、ゴトン。心地よい微睡みの中を彷徨いながら次第に減速していくのを感じた。背後の窓から差し込む日差しが耳の裏を焼いている。振り返ってみれば、緑に覆われた山々が近くでも遠くでも聳え立っていた。

やっと目的地に着く。家を出てから五時間半。たくさんの電車を乗り継いだが、最後にこの小さな電車で力尽きたように眠りに落ちてしまった。何度も窓に頭が激突したのを覚えているが、そんなことは気にならないくらいとにかく疲れた。同じ日本でも、こんなに遠い場所があるなんて知らなかった。韓国辺りに行くほうがよっぽど近く感じそうだ。

昔はよくおばあちゃんの家に行ったが、どこにでもあるようなそこそこ栄えた街だった。こんな田舎はこれまで見たことがない。時折ひらけた場所に出ても、畑や田んぼが広がっている先に少しの集落があるくらいだ。住所を見る限り田舎とは予想していたが、想像を遥かに超えていた。

シャツのポケットからおっちゃんに渡されたメモを引っ張り出して目的の家の住所を確認する。携帯で調べてみたが、山ノ池は最寄駅といっても、目的地からは大分離れている。

電車が徐々にゆっくりになり、小さなホームが見えてきた。バス停みたいな駅だった。

(続く……)